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網の中の魚

普通幼い頃のことなんて印象に残った場面を断片的にしか覚えてないものだ。でも誰しもなぜ覚えているのか分からないけど頭の片隅に今でもずっと残っている記憶があると思う。


あれは確か僕が小学校3年生くらいのことだったと思う。
その頃生き物が大好きでよく外でバッタやザリガニなんかを捕まえて遊んでいた。捕まえて家に持ち帰って飼ったりするわけではなく、自分の手でその場で捕まえて手の内に収めることで自己満足に浸っていた。
近所に田んぼがあるおかげでザリガニが獲れる用水路がたくさんあった。僕はそれらを「ザリガニ王国」なんて名付けてどんな炎天下の中でも夢中で辺りを駆け回ってた。
なんであんなことにあれほど夢中だったのか今では不思議に思う。

その日は昼下がりに1人でいつものように「ザリガニ王国」に向かった。今日はどんな水生生物を見れるのだろうとワクワクしていたけど、到着してすぐに衝撃的な光景が目に飛び込んだ。
加工が施された大きめのペットボトルと黒くて丈夫そうな網の中に小魚やドジョウが息苦しそうにギチギチに詰められていた。
まるで魚たちの地獄を具現化をしたようなその光景は、当時蚊も殺せないほど繊細な心を持った僕に衝撃を与えるには十分すぎるくらいだった。
ペットボトルの中のもう動く力もない魚と目が合った気がした。
僕は反射的に助けなきゃと思った。明らかに誰かが魚を捕らえるために仕掛けた罠だ。でもその時の僕にはそんなこと考える余裕もなかった。
それから何かに取り憑かれたかのように家に向かって全力で走った。家に飛び込むように入り家にいた2歳年下の妹に声を掛けた。
なんて声を掛けたかまでは覚えてないけど「魚たちを助けに行くぞ」なんて言っただろうか。妹は嫌な顔1つせず僕の誘いを快諾してくれた。
今思えばよく意味のわからないあの唐突な呼び出しに乗ってくれたと思う。僕たちはそれぞれハサミを握りしめ現場までひた走った。
その悪魔の装置は変わらず魚たちをがっちりと捕らえていた。もう息絶えていた魚も多かったけど少しでも多くの魚を助けたかった。
僕は微塵のためらいもなく網目をハサミの刃に噛ませ思いっきり力を入れ穴を空けた。その穴からドジョウたちが飛び出るように水路へ逃げて行った。僕はこの調子で囚われた魚を全て解放し、ヒーローになる予定だった。でもそれはただの未熟な子どもの妄想に過ぎなかった。
網を切り刻んでいる最中、背後から「こら、何してるんだ!?」という怒号が耳に飛び込んだ。
振り返るとメガネを掛けた40歳くらいの男が僕たちを見下ろし、その後ろには僕よりも少し小さそうな男の子2人が怪訝な顔をしてこちらをじっと見つめていた。
僕はこの時初めて自分がしたことは悪いことなんだと悟った。どうやらこの罠はその男が子どものために仕掛けたものらしい。僕たちはその男に通ってる学校や名前を聞かれ、怒りを込めたはっきりとした口調で怒られた。妹が僕の隣で泣いているのがわかったけど、大人に怒られるのはやっぱり怖くてただ俯くことしかできなかった。
それから僕たちは全力で駆けてきた道を弱々しい足取りで俯きながら歩いた。帰り道僕はなんて声を掛けたらいいか分からず、妹と一言も言葉を交わさなかった。
家に帰ってから今までずっとお互いにこの一件について言及したことはない。今も妹はあの日のことを覚えているのだろうか。

僕は悪いことをしたかったわけじゃない。その家族の邪魔をしたかったわけでもない。ただ単に目の前の苦しそうな魚を助けたかっただけだ。
父親と一緒にいた男の子には僕はどう映っただろうか。やはり悪者に見えただろうか。僕がやったことは他人が仕掛けた罠を破壊する行為なのだからそう思われても仕方ないと思う。
結果的に良くないことをしたのかもしれないが、僕は当時の自分を褒めてあげたいと思う。
いくら好奇心旺盛な少年期といえど、ただ魚を助けたいというまっすぐな気持ちだけでここまで行動に移すことはあまりできることではない気がする。
後先考えずに走り出した当時の僕を少しだけ誇りに思う。
今の僕にそんな純粋でまっすぐな気持ちだけで衝動的に動いてしまうなんてことはほとんどない気がする。
今の僕が当時と同じように水路で罠にかかり苦しそうな魚を見ても「可哀相だから助けなきゃ」とまでは思えないだろう。
あれから今までの間のどこでそんな心を失ったんだろう。どこで「大人」になってしまったんだろう。
当時の僕が今現在の僕を見たらなんて思うんだろうか。


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