筋トレで、なぜ整えるのか。

ととの・う〔ととのふ〕【整う/調う/▽斉う】 [動ワ五(ハ四)]

  1. 必要なものがすべてそろう。「材料が―・う」「準備が―・う」

  1. きちんとまとまった状態や形になる。調和がとれる。「体裁が―・う」「―・った顔だち」

  1. 交渉や相談がまとまる。「縁談が―・う」「契約が―・う」

  2. [動ハ下二]「ととのえる」の文語形。

[補説]多く、2は「整う」、13は「調う」と書く。


 少し蛇足かも知れないが、生命の話から行おう。述べていることは、あくまで作者の感想であることを予め謝罪しておきたい。

 海の中のバクテリアから生まれた生命は、光合成から生命活動を始めたと言われているらしい。それにより酸素が地表に満ちつつ、生命はエネルギーを化学変化で生み出すだけでなく、他者を捕食することでエネルギーを効率的に補給する術を得た。
 他者を捕食するためには、すぐそばの隣人だけでなく、捕食できるもののいる場所にいかねばならない。もちろんその前から、光合成をするために光ある場へ向かわねばならなかったかも知れない。すなわち生命の運動とは消化や分解といったエネルギー産生に次ぐ非常に原始的な行為と考えられる。
 海中は水圧により重力を軽減することで、運動のためには推進方向への出力を主として必要とする。基本的には生物は捕食物のある方へ進むため、推進方向の前面に捕食器官である口あるいは触手を備えるようになった。そしてあるものは推進機関を備えたり、その捕食器官である触手を推進力に用いるようにもなった。

 光合成により酸素の満ちた地上には、我々の祖先たる生物が上陸することとなった。さぞや祖先たちは驚いたに違いない。水圧のないこの世界に。重量による不自由さに。水中では水圧と生物は推進方向への反作用に耐得ることができれば残りは外敵から身を守るのみであった肉体に、重力の支配を逃れる機構を追加することを求められたのだから。
 当時は現在よりも低気圧であり、そのため恐竜などは巨大化したと聞いた気がするが、それでも重力は水中よりは辛いであろう。満遍なく与えられていた圧力が下方に集中させるのだから。腕を持ち上げるにも一苦労、頭を上げるにも苦労しそうだ。初めて陸上に出たと言われる動物が地を這う姿勢であることも納得だ。

 より安定性を求めつつ、海中時代から続く食物連鎖から逃れる自由度を得るため、四足歩行という合理性を哺乳類は得た。
 しかし生物の一部は、より生きるために合理的な形として、二足歩行を選んだ。しかしこれには大きな壁がある。勿論それは重力である。
 物理的に、常識的に、体を安定させるためには足が数多くあるに越したことはない。さらに重心は低いに越したことはない。なのに二足歩行動物は、生きるために物理的な常識に打ち勝とうと試み、勝利した。そして今、二足歩行動物であるヒトは実質的な食物連鎖の頂点にいる。

 一方二足歩行には当然弱点がある。四足歩行にも言えるが、高い重心を安定させねば動くも止まるも不自由になるということだ。
 さらに生物は推進力を得るために、二足歩行となる遥か前に、湾曲した脊柱を得ていた。そのまま立ち上がるとどうなるか。脊椎という湾曲した骨を用いた、達成不可能な賽の河原の石積みを始めることとなる。
 脚の骨は、まだわかる。人間であれば長い棒を上下に二段とその下に踵骨の三段積む。わかる。しかし脊柱。15個の骨をS字に積め。冗談か?さらにその上に体重の10%に及ぶ最高に重いものを乗せろ。賽の河原に居る鬼でもあまりの無茶振りに可哀想に思うだろ。

 しかし祖先は考えた。どうすればこの難題に勝てるだろうか。答えは筋肉である。靭帯である。靭帯で最低限周りを覆いつつ、常に筋肉に働いてもらうことで外側から引っ張りあってもらおう。
 ああ安心だ。これでこの石積みは完成だ。


そ ん な こ と は な い


 筋肉はそもそも捕食するため、生命活動を維持するためにできた。次なるエネルギーを求めるため、一時的に移動するためにできた。何より筋肉には長時間引っ張り合うために力を出すようにはできていない。長時間引っ張り合う力を出そうとすれば、長時間エネルギーを使い餓死してしまうので当然だ。
 仕方がないので筋肉にセンサーを用意した。崩れそうになる時だけ筋肉に骨を引っ張ってもらうセンサーだ。ああこれで安心だ。

と こ ろ が ど っ こ い 

 崩れそうになる時っていつだ。人間は常に安定と不安定の狭間にいる。安定させたつもりがその隣では稼働が求められる。当然だ鬼も憐れむ賽の河原の石積みをさせられているのだから。常に選択を迫られる。安定か、不安定か。
 そして学んでしまう。仮初の安定を。生活で、仕事で、運動で。
 座ることで、筋肉は脊柱の上に頭を乗せて保つという真の目的とは違う引っ張り合いを学んでしまう。ふかふかした、あるいは造形的な美しさを求めた靴を履くことで、筋肉は元の骨の積まれ方を忘れてしまう。


 長々語ったが端的にいうと、人間の体は単純な重力という外力にさえ調和が失われ、安定していない。
 さらには安定と不安定の狭間で調和を求められた筋肉は、姿勢や環境による調和したと見せられた幻覚による助けもあり、誤った調和を生み出す。すなわち整っていないのである。
 特に厄介なのは、生物としては、あるいは脳としては安定したいのである。しかし仮初の安定を求めがちであるため、真の安定は生活の中で失われてしまうため、整いからは離れていく。
 整いから離れた体は、本来持つ運動の自由度を急速に失う。本来は捕食のため移動のため自由に動かしていた筋肉は、仮初の安定と引き換えに自由度を抑制した。
 
 自由度を失った体で自由な運動を求めると、脳は安定していないと感じてしまい、抑制する。安定していないのに安定していると勘違いしたままなら良いのだが、生憎センサーをつけてしまったので、あるところで仮初の安定に、不安定に気づいてしまうのだ。不安定であるために抑制するのは簡単なのだが、自由を抑制する結果、要求まで抑制してしまう。
 さらに抑制は、脳が不安定を感じて初めて行われる。脳が不安定を感じるには眼球や筋肉から脊柱を経由した脳への往復にかかる1秒前後のロスがあるため、要求した自由な運動を途中で阻害することになる。
 ようやくわかりやすく例えられるが、膝が十分に曲がるのに、股関節が十分に曲がるのに、フルスクワットができない。フルスクワットをする自由を抑制してしまったのである。
 
 ではどうすればフルスクワットをする自由を享受出来るのか、それは整いを知る、調和を知ることである。一方の筋肉の過剰な緊張を抑えること、他方の筋肉の過剰な弛緩を改善するは当然であり、特定の運動を行うときに脳がすでに覚えてしまった不安定を、安定に書き換えねばならない。この運動は実は安定していると、学ばなければならない。運動学習である。
 例えるならば、フルスクワットには足関節背屈15°、膝関節屈曲120°、股関節屈曲100°の柔軟性が必要と言われている。足りているのであれば、体がフルスクワットに対して安定を学んでいないため、必要なコレクティブエクササイズが必要である。自分の場合は、柔軟性は当然十分ながらも、膝関節の屈曲が足りていなかった。そのため、他の関節が稼働していながらも膝関節が屈曲しても大丈夫であると覚える必要があった。結果としてはバンドスパニッシュスクワットが奏功した。
 仮に股関節が十分に屈曲しないのであれば、当然別のエクササイズが必要であるし、ベンチプレスでお尻が浮いてしまうのなら、デッドリフトで腰を痛めてしまうのであれば、それは運動の自由を自らの学習異常で妨げていることに他ならないため、それを阻害するものが何か足を止めて考えねばならない。出なければ、自らの運動を抑制したままであれば、より重いものを持ち上げたいと言った要求をも抑制してしまうからである。

 そして自分の体をよく知るものは、自分ではないかもしれない現実を理解しなくてはならない。そもそも自分の脳が過ちを犯していることから、整っていないことは始まる。知識的な面は当然にしろ、自分はこれはできている、これはこのことと関係ないと考えることは、運動学習の妨げである。
 過ちて改めざる、これを過ちという。
 先人が産んできたエクササイズが出来ないのであれば、自分が完璧でない所以となるか、自分の将来の妨げとなるか、一考の必要がある。

 このように、整いとは、古来から生物として孕んできた安定と不安定という二律背反を繋ぐものと考える。重いものを持ち上げたい、筋力を高めたい、筋肥大をしたい、その要求を妨げるのは、常に自分の産んだ不安定はないのかと考えねばならない。
 脚下照顧。整うためのエクササイズを奇妙な運動と嘲笑する前に、その運動が体に、筋肉に、脳に、どのような影響を及ぼすのか、深く考え、整いを高めていくことが、必要なことだと私は考える。


以下に本文はありません。共感いただければ、ご支援お願いいたします。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?