ユリシーズを読む|001.思い立つ|2021.03.10

面倒な「前書き」は、後日、書けばいい。書こう。とっととやりたいことを書き始めよう。
 だいたいがこの「前書き」「前置き」を書いてるあいだに、書き手はやる気が失せてくるし、読み手は興味がなくなるのだ。頭の中で何かを構想してるとき、前書きや前置きを構想してるひとは少ないのではと思う。どうなんだろう?せっかちな僕はやらない。
 なのでここでは、『プルーストを読む生活』を擬いて僕も何度も挫折したnoteの継続投稿にしようと思った、という、それだけから始めよう。せめて、では、どうして擬こうと思ったか?

今、僕は熊本から東京まで帰る新幹線の車内でこれを書いている。GoogleMapで現在地をみてみると、広島県立中央公園の横を通り過ぎようとしている。トンネルに入った。
 熊本行きは仕事だったのだけど、用件はなんであれ違う町にいけば必ず探すのが、その町の本とコーヒー。熊本はそのいずれにも恵まれていた。
 コーヒーでは、「珈琲回廊」と「グラックコーヒースポット」が最高だった。「珈琲回廊」さんは仕事の隙間をみつけて3回も通った。
 書店では、「長崎次郎書店」と「長崎書店」が書店の良心ともいいたくなるような場所で。ちゃんと町の一部でありながら、本好きを楽しませる棚になっていて好ましく感じる。こういうカフェと書店がある町に住みたい。その長崎書店さんで、これも隙間時間の10分強くらいの滞在時間でザッと棚をみて、『化石の文化史』という本に、惹かれてまず手に取り、もう一冊くらい、とまよって『プルーストを読む生活』を手にとった。
 どうして手にとったか。行動の理由なんて、脳の仕組みから考えれば、基本的には後付けの言い訳としかいえないのだけど、そんな後付けの言い訳をしてしまうならば、まずは本の佇まいが美しかったこと。分厚さもよい。こういう本を自分のものとしてつくってみたい。もうひとつは、タイトルからしてnoteとかからうまれた本だろうな、と思ったのだけど、開いてみてその通りだったこと。『労働者のための漫画の描き方教室』を読んで、とにかくも、そう、発信をやりたくなってたのだろう、ならば、擬くのによいケースなのでは、と思った。
 つまりは、著者には申し訳ないけども、中身を読みたい、というよりは、noteとかでテキストを書いていって、最終的にこんな本になればいいな、という、そんな例として手にとった。
 ちなみにプルーストは読んでない。読みたいけどまだ挫折してる自分しか思い浮かばない。
 とにかく、心地よい長崎書店での慌しい滞在のあと、近くにあるグラックコーヒースポットで、ドリップされるコーヒーがぽたぽたと落ちるのを待ちながら、はらはらと頁を開いた。奥付に印刷に用いた紙が書いてある。僕は、丁寧につくられた本には、もう少しブックデザイナーや印刷者の場所があってもよいように思う。紙の本ならではの要素であり、よい本が存続するには、そういうひとたちがひとりひとり、とても大事なのだ。

長くなった。取り敢えず、書き始めようと思う。それにはまず、テーマとなる本を考えないといけない。それには、読みたいけど先送りしてきた本がいいだろう。しばらくコンテンツに困らなくなるような本がよい。
 ピンときたのは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』だ。これもずっと積んであった。何年間、積んでただろう。
 さきほど書いたけども、どうして僕が新しい町にいくと本屋を探して本を買うか、というと、そこで買った本は、本棚に積まれるなりして、のちの僕の生活のなかで視野の一部にずっと残っていくからだ。
 訳の分からないお土産は、そのうちどこかに消えるけども、町の記憶を帯びた本は、棚の中でささやかな豊かさを兼ね備えて、特別なものとして残る。そして、その本の方が、町のイメージを作り始めたりもする。もしくは、自分の棚の前で「どうしてこの本は特別な本なんだっけ」と思い出したときに、「あ、あのとき、あの町で、あの書店で買ったからだった」と、なんともいえない郷愁というか胸の中のささやかなさわめきをうむ。いずれおとずれるそんなさわめきの種を、本棚に仕掛けている。
 そんな本に、例えば有名な京都の恵文社一乗寺店で買った、篠山紀信のモノクロームの写真集がある。今、新幹線のなかで、正確なタイトルは思い出せないのだけども、写真集を開くたびに、叡山電鉄の一乗寺駅から書店までの往復の道を、慣れない町の夕暮れの侘しさを、思い出す楽しみが備わっている。
 他にも、まだ福岡に住んでいた大学生だったころ、東京にくることがあって、そのときに神保町で買った松岡正剛の『遊学I』という本がある。なぜ神保町にいったのだろう、ただの好奇心だったかもしれない。購入した書店についても記憶が定かでなく、そのあとに東京に引っ越してきてから神保町を歩いても、記憶の場所に記憶の書店はなかった。でも、とんでもない本を買ったと思った。こんな知性があるのかと驚いた。2003年とか、それくらいの頃だったと思う。
 それからのち、2009年にオアゾの丸善のうえに、松岡正剛の「松丸本舗」があらわれる。『松丸本舗主義』という本に詳しいけども、これは衝撃的な書店だった。会社員になってばかりだった僕は、ここの場の知的興奮に酔いしれてた。そこで買った本は、はじめての町のはじめての本屋で買った本と同じように、今も特別な存在感を、僕の本棚の中で、僕にしかわからない方法でたたえている。ジョイスの『ユリシーズ』はまさにそのひとつなのだ。

わずか3年にして、僕の人生に大きな影響を与えた(それが何かに結実したわけではないが)松丸本舗。2012年の閉店から8年以上がすぎている。つまりはユリシーズはおそらく10年ほど、僕の棚で、松丸本舗のカバーをつけたまま、そこにある。
 そろそろこれを紐解くべきときなのだ。

ということで、ジョイスの『ユリシーズ』を読む、それをここではじめたいと思う。

いつのまにか新幹線は、新大阪を過ぎて、もうすぐ京都というところまできている。

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