ハート・クレインの翻訳について


 たくさんの詩や文学を訳してきたけれども、たまには作品や、翻訳という営みについて、思うところを書き連ねてみようと思う。
ハート・クレインの詩のエッセンスを抽出して伝ようとするならばそれは、日常の論理を超えた論理によって言葉を結びつけ、近代人の生活感情を表現しようとした、というところにあるだろう。拙訳からもわかることだと思うが、彼は形而下の世界の常識などまるで無視して、異質なイメージを連結させている。彼の詩を読んだ読者の頭に浮かぶ影像は、なんとも言葉に言い表しがたいものである。
 このように一見無秩序な表現が、詩としての秩序を獲得するためには、全体を貫くリズムがなくてはならない。ハート・クレインの詩の韻律は、アイアンビック・ペンタミターというものを基調にしている。これは簡単にいえば、シェイクスピアやミルトンも使っていた、英詩の伝統的な韻律である。胎児が母の胎内で聞いた心臓の音と同じテンポとも言われていて、英語話者の本能に馴染んだテンポだと言える。こうしたテンポを基調にしているから、一見奇異な言葉の組み合わせも、読み返すたび感性にじわじわと浸透していく感じがする。
 彼の音韻的工夫でもう一つ言及しておきたいのは、音の連なりの滑らかさである。伝統的な韻律といっても、単に一定の規則に従って言葉を並べていくだけならば、それはなんの面白みもない。日本語で例えるなら、57577という文字数で言葉を並べたからといって、それが和歌として面白いものになるとは限らない、ということと同じである。ハート・クレインは、同じ子音や母音を連続させて読者にその音を強く印象づけたり、母音の長短による緩急を用いたり、そうした技術が実に巧みである。音の連なりに誘われて、読者は徐々に彼の詩の世界に深入りしていく。
 ハート・クレインの詩に限ったことでないが、詩を訳すときに重要なのは、その意味内容を日本語に移すだけでなく、訳詩にもリズムを与えることである。リズムは詩の命である。詩の要素を一つ一つ訳出するだけではそれは詩の残骸の寄せ集めに過ぎない。雑多な要素をリズムが貫き、そこに詩の世界が生まれるのである。とはいっても、ある言語のリズムと全く同じものを、別の言語で再現するのは不可能であるから、翻訳元の原詩からヒントを得つつも、訳者は自分でリズムを作らねばならない。詩の翻訳それ自体が独立した詩なのだと言われる所以はここにある。
 ハート・クレインの拙訳の中で、一番の成功だと思っているのは、「所有」である。(2020/03/14時点)彼の詩の与える恍惚的な印象が、少しばかり再現できているのでないかと思う。
 クレインは同じ音を繰り返す技巧、つまり子韻、母韻によって詩の要素を凝縮した。拙訳では熟語を多用している。漢字は仮名に比べて意味をぎゅっと圧縮して提示してくれる。
 「盲目的な総額」「狂熱の記録」「部分的な欲求」「最終的に焼却」、これらは近い音の熟語をうまく連ねられたなと自画自賛している。k音を基調にした、硬い感じのする音の連続が、詩のリズムに勢いをつける。
 クレインの詩は命令形が頻出する。読者、あるいは何者かに向かって訴えかけるような口調の詩が多く、その点ではホイットマンの態度を継承している。従って、訳も演説のように力強い口調になるのが良い。幸いにも、熟語の多用は演説調と相性が良い。そしてまた、語りに勢いがなければ、言葉の組み合わせの奇異さに負けて、読者を詩世界に誘う力が弱まってしまう。その点も意識する必要がある。

 そうしてできたこの訳文が、クレインの原詩には及ばずとも、詩としての生命を持った立派な一つの作品であると、そう読者に感じてもらえれば、詩人冥利につきる。

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