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主に詩の翻訳、批評を楽しんでいます

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キイ・ウエストの秩序の観念

少女のうたは海の精霊よりも優れていた 海は声にも心にも 変わることなく ただ体でしかない体のように 空っぽの袖をはためかせ そうした 模倣的な運動が 連続的な叫びを 引き起こし それは我々の叫びとは 違っていても 我々は 真実の海にあるこの 人間を超越した存在の 声をたしかに理解した その海は仮面ではなかったし 少女も 仮面ではなかった 海と声が合わさって 一つの曲になることはなかった 少女のうたを少女は聴いた それは間違いないのだが しかし少女は一つ一つの言葉を押し出すよ

    • マイノリティの断末魔 閉ぢていざ鮎甘き夕食を

      「巻末はハドリアヌスの断末魔 閉ぢていざ鮎甘き夕食(ゆうげ)を」 塚本邦雄の短歌である。この歌が示しているのは、文学が生活の中でどのような位置を占めるかということである。 古代ローマの権力闘争を描いた小説(辻邦生の『背教者ユリアヌス』であろうか、調べていないからわからないが)をキリのいい所まで読み終え、夕食をとるという、パラフレーズすればなんてことない、生活の一コマでしかない。 血みどろの文学世界と楽しい夕食は、はっきりと区切られている。文法的にもそうだし、一文字分の空白もあ

      • 冷蔵庫の女、批評の素晴らしさ

        「冷蔵庫の女」という概念があるらしい。日本を代表する若手文芸批評家である北村紗衣先生のブログから説明をお借りすれば、「アメコミの分析から始まって今では映画などでも使われるようになっている批評概念の一種で、男性ヒーローの成長とか動機付けのためにガールフレンドや家族など、親しい女性が殺されるようなプロットを指す。つまり、女性が殺されることが主人公男性を奮起させ、活躍させるためのプロットデバイスとして使用される」ということである。 つまるところ女性キャラを、男性キャラの英雄的活躍の

        • 自殺者の書き置き

          川は冷たく 澄ました顔で 求めてきたんだ 俺のキスを ラングストン・ヒューズ

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        キイ・ウエストの秩序の観念

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        記事

          海辺の街

          春はそれほど美しくない この一帯では──     夢見る舟は出航する  不思議なくらい煌めく春と 朗らかな生の      ある場所へ 春はそれほど美しくない この一帯では──   海へ出る 若者たちは  心の中に美しさ それから夢を携えている      僕みたいに ラングストン・ヒューズ

          海辺の街

          短歌 三首

          xy平面 零から左にも  しんしんと降るマイナスの雪 目を閉じた少年と僕 苦しみが声にかわって もどって来るまで 架空の馬に跨って 超えていこうよ この山も 富士山とかも

          短歌 三首

          全く本当に

           ああ僕が君を愛するような 愛には 苦労が絶えない  愛のために 風が    心臓が  帽子が 僕を苛む 僕のヘアバンドを 買い取って    この白色の 悲しみの糸を 縫い合わせ ハンカチーフに 作り替えてくれるのは      どこの誰だ  ああ僕が君を愛するような 愛には 苦労が絶えない フェデリコ・ガルシア・ロルカ

          全く本当に

          露出狂的

          ネットフリックスで大人気のスペイン発のクライムサスペンスドラマ、『ペーパーハウス』を見た。批評家からも一般層からも高い支持を得ているが、自分はあまり面白いとは感じなかった。人気が出る理由は分かる。ギリギリの状況の連続でハラハラドキドキさせられるし、強盗事件の首謀者である「教授」をはじめ、キャラクターは立っている。 けれどもこの作品はそれ以上のものは与えてくれないように思える。この作品の評価は世間と僕とであまりに大きく違ってしまっている。けれども少数派であるということは、必ずし

          露出狂的

          ヴェルレーヌ

          僕が絶対に 歌うことのない 歌が  僕の唇で眠りに落ちた 僕が絶対に 歌うことのない あの歌が スイカズラの上を飛ぶ 一匹の蛍 水の中へと突き刺さる 月の光線 その夜僕は夢に見た 僕が絶対に 歌うことのない あの歌を 唇で満ち 遠い場所から湧き出てくる歌 陰の中の 無為な時間に 満ちた歌 永遠に続く一日の上で 生きる お星さまの歌 フェデリコ・ガルシア・ロルカ

          ヴェルレーヌ

          厨二病の箱庭

          先日取り上げた、藤田直哉によるろくでもない『ペルソナ 5』レビューだが、あれは『ペルソナ5』を賞賛しながら、結果的には貶めてしまっている。つまらない人間がつまらない褒め方をすれば、褒められたものもつまらなく見えるものだ。この状況を放置しておくのはあまり気持ちよくないので、藤田直哉の批評の言葉を借りて、藤田が行った方向の裏側から、このゲームを褒めてみよう。 まず前提として、藤田の批評を振り返っておこう。藤田はこのゲームを社会批判の精神に秀でたものとして褒め称える。曰く「同時代

          厨二病の箱庭

          藤田直哉をゲーム批評家とは呼ばない

          https://jp.ign.com/sf-game-history/44678/opinion/sf295 藤田直哉という、ゲーム批評家を名乗る大学教授が書いたペルソナ 5評だが、読まなくても問題はない。 藤田はメインストーリーをさっと紹介し、それが批評家御用達の社会批判のタームと如何に強く関連づけられるかを述べ、称賛している。 藤田の批評はストーリーへの言及にほとんど終始しており、ゲームプレイとしてどのような経験なのかということは、この批評からは全く読み取れないと言って

          藤田直哉をゲーム批評家とは呼ばない

          短歌 3首

          夏の虫 ではなく炎だ 懇願し         静かに頭を下げているのは   二兆粒 降る雨粒の  手に触れる一滴目の水 促すように 今はもう 金剛山を 望めない     良くも悪くも書斎よ ここは

          短歌 3首

          つくりものの世界の約束

          ゲームソフトで初めて本格的にのめりこんだのは、ポケモン銀だったと思う。世界を冒険したり、ポケモンを捕まえたり、育てたり、戦わせたり、周りと交換したりするのを楽しんだ思い出がある。これらは言うまでもなくポケモンというゲームの醍醐味だけれども、この中には含まれないが、印象に残っている出来事が一つある。 それはライバルのポケモンにモンスターボールを投げたことだ。どういうことかと言えば、ポケモンというゲームは、野生のポケモンとの戦闘時にボールを投げることでポケモンをゲットし、集めて

          つくりものの世界の約束

          短歌 5首

          空想のあべのハルカス降り来たる  語れよ語れ地上の言葉 空白に位置エネルギー充填し  のけぞる文字に 釘付けの目 客体化せし我が娘「そんなこと知るわけないわ詩人に聞いて」 林檎の樹 緑の指に 囚われて 声でしかなくなる女 トロンボーンを使役して 奪え けだものたちの体毛

          短歌 5首

          アルバ

          もしも仮にきみの手が 無益なものでしかなかったら この地表には一本の 草も生え出てこないだろう 気ままに書いて 気ままにキスして── いや、つまり言いたいのは きみの紙を読むことだ 闇が濡れた草にかぶさるときの 大地のように その場にいることだ ジャック・スパイサー

          アルバ

          はだかの樹

          屋根より高くそびえる はだかの桜の樹 去年あり余るほど 実をつけた が 去年の果実を語っても 目の前に あらわな骨組み 生きているには違いないが 実をつけていない したがって伐り倒し 木材として利用しよう この寒さを凌ぐために ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

          はだかの樹