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人はなぜ「いいね」を欲しがるのか? SNSに潜む人類存続のメカニズム!?

さて、今回もまた書籍『スマホ脳』の中から興味深い話を、私なりに噛み砕いて説明する。過去の『スマホ脳』に関する記事は以下に。

さて、スマホってのはどうにも人間の脳が、太古から備わっている生存本能や、本来持っている機能に作用しているので、我々はこのスマホという便利なアイテム様から目も離せないし、手も放せない。

そんな我々がついつい夢中になってしまっているSNS。自信満々に発信したことにいいねがつかないとなんとなくガッカリしたような気分になるのは誰しも抗いがたく否定しきれない感情だと思う。

なんだよ、そんなのただの承認欲求丸出しのかまってちゃんじゃないか!

というのがこれまでの論調であった事は確かだろう。

しかしこの『スマホ脳』の著者アンデシュ・ハンセン氏はどうやらそうではないらしいという推論を展開する。

そしてそれは人類の『脳の働き』に起因するというのだ。


1.一万年前に作られた人類の脳

さて本書中何度も記されている事なのだが、我々人類が頭蓋の中に大切にしまっている脳ミソというものは、この形状と機能を有するようになったのがおよそ一万年前だというのだ。

その頃はまだ大規模農業が始まる前で、言語が生まれ、まだ文字が生まれていない時代。

その頃、人類は移動しながらも集落を築いて暮らしていた。

ちょうどその頃のコミュニティの人数が平均すると100人から150人程度であるらしい。
その頃の人類は当然、今のように理性的ではなく、生物としての蛮性をゆうしていた。

例えば、だ。

そんなコミュニティの中に、今後の集落の在り方について異なる意見を述べる人間が居たとしよう。

それに対してコミュニティを運営しようとする多数の人々はどうしたであろうか?

現代の我々ならば、「なんとか話し合いで和解すべきであろう」と知性を働かせ和解の道を模索するだろう。

しかし一万年前の人類は未だなかなかに蛮族である。
つまり、コミュニティ内で意見を違える者が居れば、多数の人間でそいつを殺してしまうのだ。

ああ、恐ろしきかな! 人類の血塗られた歴史よ!


2.現代でも普通に起こるコミュニティ内での抗争

さて、上記のことを一万年前の理性低き人類未満のことだと他人事のように対岸の火事のように見てはいないだろうか?

こういった事は、我々が属しているコミュニティでも、これまで頻繁に見てきたはずだ。もちろん、命を奪うまではいかないだろうが。

例えば。

毎回、部署の飲み会に参加してくるけども、毎度毎度空気の読めない発言に雰囲気をぶち壊し、挙げ句の果てに会計の時にはいつも必ずトイレに籠もるヤツがいたとしよう。

いるよね、そういうヤツ?

「ああ、いるいる!」と思った方、少なからず居るよね?

それがあまりにも続くと、部署内で結託して、内密にその人以外のグループSNSを作成し、ソイツの居ない飲み会を企画しスケジュールを組むだろう。
そう。

コミュニテイの中で合わない人物を、”抹殺”することに皆で合意したわけだ。

生命のやりとりではなくなったものの、人類のコミュニティは一面年前からやっていることは変わらない。


3.コミュニティで生き残る為にはどうすればいいのか?

さて、とある集団で浮いてしまったあなた。
このままでは孤立してしまう。

しかし!

自分の方が正しいと思っているので意見を曲げたくはない……。

そんな時、あなたならどうする?

そう。

多数派に対抗する為に賛同者を募るだろう。

かつて一万年前のコミュニティに属する人類もその考えに至った。

まず他者から「自分はどう見られているか?」ということを知るべきだろう。
次に、「自分はなにを発信すべきか?」が問われることとなる。

つまり「自分は多くと意見を違えては居るがこのコミュニティに害を為す者ではない!」ということをアピールしていくのだ。

それによって多くの賛同者を得る事が出来れば、あなたはコミュニティから抹殺されずに済む……かもしれない。

もしかしたら派閥に分かれて闘争の火が上がるかもしれないし、二派が袂を分かって、それぞれの運営方針でコミュニティを発展させていくかもしれない。

この流れ、この数年、よく見かけなかっただろうか?

まさにSNSで起こる論争そのものではないか!


4.自分を周囲に知ってもらうのは、生き残る為の手段!?

SNSで発信し、いいねをもらう。

それは過去に於いて、「人類が、人が、生き残る為に用いた手段」であるのだ。

故に、人は自分の意見にいいねがつくとホッとするし、逆にいいねがつかないとガッカリする。

「へっ、俺はいいねなんて関係ねーよ! いいねもらって喜んでいるのは、魂の矮小さの現れだ!」

なんて斜に構えているそこの人!

あなたの発信がやたらと拡散されて一万いいねがついたとしても「やったーバズった!」なんて喜んだりしないね?

「いや、さすがに一万いいねは喜んでいいやろ」

とか言い出さないように。

要はその「いいね」によって自分の生命の危機が遠ざかると、我々自身ではなく、『人類の脳の機能』として備わっているのだ。

一個でホッとする人もいるだろうし、10や20でもまだまだ安心出来ないと思う人もいる。

一万年前のコミュニティに属していた人類は、その成功も失敗もイヤになるほど見てきたであろう。

つまるところ、極論として皆の賛同を得る、即ち「いいね」をもらうということは、自身の生き残る可能性を飛躍的にあげる事に繋がるのだ。

そう考えると「いいね」が欲しい、と思う事はけして浅はかな願望や承認欲求だけではなく、人間の種族の生存本能に訴え掛けるものだったのだ。

だからこそ、人は「いいね」を欲し、その為に自分はなんと発言すべきかを思案する。

逆に「いいね」がもらえないからと落ち込み、そのまま気を病んでしまう人も、その機能が働いているのだと思えば納得出来る。

心ない人は「なにをSNSのいいねぐらいで死にそうになっているかね?」なんてことを言うだろうが、それに酔って生命が脅かされるという歴史を、我々ではなく『脳』が永い永い人類の歴史によって形成されて記憶しているのだ。

承認欲求が満たされない上に生命の危機まで無意識に感じてしまっていれば、脳が一万年前の記憶を呼び覚まし危険信号を発する。
過去の重大事件でも「ネットで相手にされなかった」からと凶行に及んだ者も居る。そこまで追い詰められた一因にこのような太古の記憶が作用していないとは言い切れまい。

5.150人程度のコミュニティが実はうまく機能するのでは?

さて、最初の話題に戻るが、人類の脳が、1万年前、つまり150人程度のコミュニティが形成された頃に今の我々人類の脳ミソになった。

ということは?

もしかしたら、150人前後のコミュニティを形成すると、実は一番円滑に組織が機能するのではないか? ということも逆説的に考えてしまう。

ネットで何千、何万フォロワーが居たところで、その人たちと何が繋がっている訳ではない。

それなら実際に顔を合わした100人としっかり話をした方が、人間としてはより磨きがかかるんじゃないだろうか? なんて事を考えてしまう。

何千人、何万人とつながろうとも、それは人の脳のキャパシティを軽く凌駕してしまっているので、そこに正しい判断が出来るのであろうか? という疑問を抱く。

今のスマホが人類に技術革新を起こし、脳に新たな変化(進化)を与え、さらに高度な働きを得ることを期待してもいいのだろうか?

残念ながらその答えを知るには、一万年をまたないといけない。


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