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テラスハウス問題から感じた想像力の欠如。

私はテラスハウスが本気で大好きだった。

9年前の秋頃だろうか、

金曜日の夜たまたまテレビをつけたら始まった、なんだかおしゃれな番組。

たまたま見た第一回の放送から欠かさず見ていた。

湘南・映画・東京・ハワイ・軽井沢・そして新東京と、どれも何度も見た。

最初の頃は、トヨタプレゼンツでYOUさんが夜の東京を走る車内からナビゲートする、なんだかオシャレな番組だった。

当初は恋愛観察バラエティでもなく、

ただ男女6人が同じ家に住んでみたらどうなるんだろうっていう番組で、

彼女がいるメンバーもいたし、

恋愛禁止のアイドルもいたし、

その進展はとても緩やかだったけどそれがリアルで心地よかった。

恋愛は生まれるのか?

友情は芽生えるのか?

それとも何も起こらないのか?

夢に向かって前進するのか?

若者たちのさまざまな日常が垣間見れる、そんなの面白くないと思う人もいるかもしれないが、それが面白かった。

素敵な家と素敵な車、

カフェやバー、

海の家、

湘南の景色、

ただそれだけでよかったのに。

画面には見えない部分を想像して見る楽しさがあった

湘南初期の頃は、今ほどSNSが普及していなかった。

はじめてのオンエアを終えて、住人それぞれがメールやSNSをチェックするシーンがあって、放送を終えて、テレビを見た人からの反響が絶えない様子だった。

聖南さんとまーくんのデート目撃情報を、てっちゃんがmixiの掲示板を見て知るというシーンもあった。

でも最初の頃はそれくらいで、噂話こそあったものの、今ほど酷いものではなかったんじゃないかと思う。

そもそも私はいろんなことを想像しながら見るのが好きだった。

テレビで見ることができるのは、生活のほんの一部だけ。

なんで急にそうなった?!…って思うようなこともあったけど、

うつされていない部分にどんなことがあったのだろう?っていうのを想像しながら見るのが楽しかった。

もしかしてこういうことがあったのかな?

それともこんなことがあったのかな?

真実はわからない。

だからほんの一部の側面だけを見て誰かに対して悪意や批判的な感情を極端にいだくようなことはなかった。

そもそも誹謗中傷している人は、物事を多角的に見る力や想像力が欠如しすぎているんじゃない?と思う。

いつからウケを狙いはじめた?

そもそも最初から多少の演出があったんだろうとは思う。

でも何も起きなくてじれったい感じもそれはそれでリアルで良かったし、

最近恋愛動いてないなーっていうのもそれはそれで良かったし、

トラブルなんてほとんどなくてそれでも面白かった。

初期の頃は、誰が掃除するかとかゴミ捨て当番がどうとか、まーくんが車の鍵を持ったままでかけてしまったとか、そんな些細なことで言い合いをしていたり、

あやちゃんに対する王子の態度について華ちゃんが喝を入れたり、

洋さんはネット上での批判の声に対してアメブロで今井洋介怒ってますなんて書いてメンバーにさとされたり、

まいまいはてっちゃんのことをテレビ用で弄んでいるんじゃないかと責められたり、

ケンケンがりょうちゃんからみちこに乗り換えて一波乱あったり、

そんなもんだったのに。

いつからこんなふうに過剰な演出をするようになってしまったんだろう?

想像力がなさすぎる・なんでも答えを知りたがる

ノストラダムスの大予言を覚えているだろうか。

20数年前、単なる著書のなんの根拠もない「予言」を世の人たちは信じて怯えていた。

そんなことが今考えられるだろうか?

たとえば、「2021年7の月、恐怖の大王が降りてきて人類は滅亡するだろう」

なんて今言ったら叩き打ちに合うだけだろう。

嘘をつくなと罵られ、なんなら犯罪者扱いされるかもしれない。


あんな著書を信じて、ああでもないこうでもないと、恐怖の大王とは大気汚染のことなんじゃないかとか人工衛星なんじゃないかとか核兵器じゃないかとか想像して談議していた「人間」が、なぜ今見るものすべてを疑い裏どりたがるのか?攻撃したがるのか?

「信じると信じないものあなた次第」

そんなことが許されなくなってきている。

あれは嘘だ!デタラメだ!ヤラセだ!

とすぐ叩かれる。


そんなに人を裁いてばかりいなくても良くないですか?

テレビやエンタテイメントに限らず、これはこういう意味だろうか?もしかしたら違うんじゃないか?

想像して楽しめないだろうか?

人それぞれ都合の良いように解釈したって良いじゃない。

90年代のドラマは、ラストを想像させるような終わりかたが流行った。

今ではあんなのも許されないんだろうなぁ。



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