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なぜ湯島にはラブホテルが多いのか

「もしも八百屋が 焼けたなら いとし恋しの 吉さんに 
また会うことも できようと 女の知恵の 浅はかさ 
一把のワラに 火をつけて ポンと投げたが 火事の元」
               『八百屋お七(猥歌版)』

時は江戸時代、本郷の八百屋にお七という娘がいた。ある時火事で住処を失い近くの寺に身を寄せていたところ、その寺で住み込みの雑用をしていた少年吉三郎と恋仲になった。ほどなくしてお七は寺を出ることになるが、吉三郎への気持ちは募るばかり。思いつめたお七は、住処を失えば再び吉三郎と一緒にいられると考え自ら家に火を放つ。火はすぐに消し止められたが、お七は放火の罪で捕らえられ死罪となった。

歌舞伎、浄瑠璃、落語等、八百屋お七をテーマにした作品は色々あるが、基本的なストーリーはこのようなものだ。このご時世で遠出することが減り近場をぶらついて過ごす時間が増えたが、東京の街角にはこの手の昔話が沢山転がっている。先日見かけたお七と吉三郎の碑が気になり改めてこの話を調べてみると、前から不思議に思っていた「なぜ湯島にはラブホテルが多いのか」という疑問に結びついた。

吉三郎は何者か

お七がこうまで心を寄せていた吉三郎とは一体何者だったのだろうか。寺の少年と聞くと何となく一休さんのような姿を連想するが、どうやらそうではないようだ。かつてそれなりに規模が大きい寺となると、住み込みで僧侶の身の回りの世話をする寺小姓と呼ばれる少年がいた。貧しい武家の子息等が口減らしのために学問や修行等の名目で寺に売られて寺小姓になることが多かったようだが、女人禁制の寺の世界ではしばしば寺小姓は僧侶の男色の対象にもなっていた。創作ではお七は10代の少女であり、このあたりの事情を踏まえた上での恋仲という設定であったか否かはわからないが、お七の情念は単に吉三郎への恋心だけではなく、ある意味別世界に生きる吉三郎に対する、手が届かないものへの渇望のような感情でもあったように思われる(何となく千と千尋の神隠しにおける、千とハクと湯婆婆の関係を連想する)。

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お七と吉三郎を描いた浮世絵。寺小姓は僧侶のように頭を剃ることもなく、身なりも綺麗にしていることが多かったようだ。

寺と性風俗

戒律により女性との関係を禁じられていた僧侶達は、このように寺で働く寺小姓と関係を持つケースもあったが、もっとオープンにお金を払って買春をするケースも多かったようだ。

歌舞伎の世界において舞台に立つことのない修行中の女形を陰間(かげま)と呼び、かつて陰間が男性と関係を持つことは芸を磨く修行の一つと考えられていた。陰間は芝居小屋に併設された座敷で客をとっていたが、次第に歌舞伎から分離しもっぱら売春をする陰間が生まれた。陰間が客をとる座敷は陰間茶屋と呼ばれ、システム的には吉原等の遊郭と同じようなものであった。江戸時代には、芝居小屋の多かった日本橋人形町のあたりと、徳川家の菩提寺として栄えた寛永寺に近い湯島のあたりで陰間茶屋は特に栄え、金銭的に余裕のある僧侶・武士・商人や裕福な家の女中や未亡人等が陰間茶屋の主な顧客であった。

陰間茶屋のその後

最盛期には江戸の陰間茶屋の数は数十軒にのぼったが、幕府の衰退を受け時の老中水野忠邦が強行した天保の改革により風紀是正が図られ、陰間茶屋も姿を消すこととなった。残された座敷は料亭や旅館として存続するも、江戸時代が終わり近代化が進むにつれて、このあたり一帯の寺社仏閣への人の流れも減り、かつての花街は時を経て次第に現在のような静かなラブホテル街に姿を変えていったのではなかろうか。改めてタイトルの問いに戻ると、寛永寺の膝下で栄えた陰間茶屋の歴史が、現在の湯島のラブホテル街の根底に通じているように思える。

機会があれば、そんなことを考えながらこのあたりを歩いてみるもの面白いかもしれない。あと、本郷三丁目にあるハンバーガー屋ファイヤーハウスはオススメです。

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映画JOKERのあのシーンを思い出す急階段。湯島は本郷台地の端に位置するため、とにかく坂が多い。

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