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毎日更新しなくたってnoteはいつだって続いている。

noteを閲覧していると、毎日更新!とか、○○日更新達成!なんて方々がたくさんいて、見かけるたびにすごいなぁと思う。

きっと、毎日更新している人たちは何かしらの目的や目標があるのだろう。
その目的や目標までの最短距離が毎日更新なんだと思う。

だからそんな活動的な先駆者の後ろ姿を見て、
僕も私も毎日更新しよう!と意を決する人。
そして、そんな人たちのために毎日更新中の猛者たちが、
毎日更新へのHow Toを惜しみなく伝授してくれる。
持ちつ持たれつのサイクルがnoteで垣間見える。

そのサイクルの中で少しつづ毎日更新したりたくさんのnoteを書く人の輪が広がっていくのだろう。

けれど、毎日更新したり、たくさんのnoteを投稿すると意気込んだもはものの、全く成果をあげれなかったり、途中で更新の記録が途絶えてしまったりと、何かがきっかけで燃え尽きてしまったりする人がいるんじゃないかと、勝手に想像する。

noteの書き方や続け方のタグがついた記事が何万とある現状を鑑みると、的外れな想像ではないんじゃないかと思う。

きっと、様々な書き方や続け方を読みあさっても一向に続かない人だっていると思う。

そんな自分と、毎日更新している人たちやたくさんのnoteを書いている人たちと比べて不甲斐ない気持ちになる人がい少なからずいるのだろう。

でも、毎日noteを投稿できなくたって、たくさんのnoteを投稿できなくたっていいじゃないか。
と、僕は思う。

目的や目標のために自分を鼓舞して前に進み続ける力強い姿は美しい。
けれど、いつの間にかそこにたどり着くことよりも、
進み続けることが目的に成ってしまうことだってある。

進み続けるだけのために、昨日までの記録が絶えない様に動かない体と思考に鞭を打ってまで進もうとすれば、いつかきっと挫けてしまう。

そして書くことも続けることにも嫌気がさして、今までの軌跡も積み上げたものも全て放り出してしまうかもしれない。
書きたい気持ちの為にnoteを書いていたのに、いつの間にかnoteを書く為に気持ちを費やしてしまう。

だからかけない時は書かなくたっていいじゃないか。

書きたいときに書いて、書きたくない時は書かなければいい。

noteの価値は毎日更新して数字を追いかけることよりも、自分自身の想いに従って自分の書きたい事をnoteに綴る方が価値があると僕は思う。
それぞれがそれぞれの価値に従って好きな様に書けばいい。そう思う。

今まで自分が投稿してきたnoteの投稿日時が連番じゃなくなったからなんだって言うんだ。

執筆中に筆が止まってしまったとしても、
書きたいことを考えたり、タイトルを考えたり、
成果としてnoteが投稿されなかったとしても、
noteでの創作は続いている。

僕の好きな作家の森博嗣が書いたエッセイの中で、
庭に生えているが何年も葉を付けなかった木がある時葉が芽生えた時の気付きを綴っていた。
その芽生えを見た森博嗣は、例え何年も葉が芽生えなくても花が咲かなくても幹があればいつの日かその日は訪れる。
命がある限りその可能性は潰えない。
それは人間も植物も同じと言うことに気づかされた。語っていた。

命ある限りなんて大袈裟なことは言わないけれど、
noteのアカウントがある限り、
あなたが執筆の手を止めない限り、
言葉を綴ることを辞めない限り、
あなたのnoteは続いている。

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