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第2章 ものがたり方程式(3)

<自己愛>

【各パラメータの定義】

それでは各パラメータについて説明します。

<自己愛>self affection

自己愛が何を意味するかは定義によります。私は、自己愛を<共同体において自分が「望むものがたり」の「望む配役」でありたいという願望、共同体から除名される恐怖の裏返しであるところの情動>と定義しようと思います。

「ものがたり」は、「なりたい自分、あるべき自分、またはなりたくない自分、あるべきではない自分というロールモデルを私に要求する、共同体の価値観やブランドのようなもの」でした。ですので、簡単にいうとその「ものがたり」に合わせようとする欲求、「ものがたり」によって自分の幸福が左右されると思う気持ちが、「自己愛」ということになります。

この定義は、心理学や精神分析学で用いられる、自己中心性、自己憐憫、ナルシズム(自分の能力や性的魅力に対する過度の思い込み)などの概念とは異なります。仏教で言うところの煩悩を「人間に苦しみをもたらす関係性に対するあらゆる欲望(貪欲、嫉妬、妬み、支配欲、所有欲など)」と定義するならば、それに近いとも言えます。

しかし先ほどの三井物産のAさんとBさんの話にあてはめてみれば、あえて深淵なる宗教の世界に入るまでもなく、私の言わんとする「自己愛」は、簡単に理解していただけると思います。

2人は、同じ共同体に所属し、同じ「ことば」(エリート、出世、成功などという概念)を共有していましたが、地方転勤という同じ「表象」と「出来事」が、全く異なる「ものがたり」として編集され、正反対の「現実」として構成され、その投影である「自分」に対する自分の評価が全く逆のものになりました。

ということは、パラメータ―の内、「自己愛」だけが、AさんとBさんとで異なっていたのだと言えるのです。

<共同体において自分が「望むものがたり」の「望む配役」でありたいという願望、共同体から除名される恐怖の裏返しであるところの情動>

この「自己愛」の定義に従えば、AさんとBさんでは、「ものがたり」によって自分の幸福が左右されると思う気持ちがある点では共通していましたが、「望むものがたり」の「望む配役」が全く異なっていたのです。Aさんは、三井物産という大企業で若くして出世するという、最も望ましい「ものがたり」の主役から、敗北者、脱落者の烙印を押された役回りに転落したと感じたのでした。

「自己愛」については、これから何度も様々な例を引用しながら、解釈を積み重ねて行きますので、序論では、このあたりで留めておきましょう。

<共同体>

共同体とは、<それを維持する意思を持った人々の集まりである>と定義できます。

そうすると、恋人や夫婦、親子、兄弟などの1対1の関係も、ミニマムな共同体だと言えます。家族、学校、会社、ムラ、チームなどが、典型的な共同体ですし、世間、社会あるいは国家や民族として観念される大きな共同体もあります。

たいがいの人間は、生きている間に、同時にまたは時を経て、複数の共同体に所属します。「ものがたり方程式」に従えば、異なる共同体では異なる現実が構成されるわけですから、現実の投影である「私」(自分)は複数存在する、現実が揺らぎ変容すれば、「私」も揺らぎ変容するのです。

そろそろ「私」と「自分」の使い分けについて、簡単に注釈しておくべき段階に来たようです。実は私はこの2つのことばを区別して使っているのです。

「私」というのは、どこまでも抽象的な概念です。

これに対して「自分」というのは、日本語の成り立ちから言えば、「自らの分際」すなわち「共同体の中における立ち位置」についての自覚であると言えます。「私は、頭も良く、容姿も良く、性格も良くて、両親から愛されている『いい子』なのだ」という自覚が、「自分」ということになります。にもかかわらず、「私」が学校でイジメられているとしましょう。イジメられている「自分」は、とても「本来の自分」とは言い難く、恥ずかしくて、申し訳なくて、両親には言えない!ということになります。

このように、「自分」とは、「この身体(肉体)」と「何のなにがし」という名前(ID)に紐づけられた、共同体の「ものがたり」の「配役」として、私が意識するところの中身(contents)です。先の例でいえば、「三井物産で将来が約束されていたはずのエリートだったが、先物取引で巨額の損失を出して左遷され、出世コースから脱落し、うつ病になって会社から追いやられた」という「ものがたり」が、Aさんの意識する「自分」です。

大多数の人々にとって、共同体があってこそ初めて「自分」があると言えます。逆に、所属する共同体が無かったり、共同体の中で「望ましいものがたりの、望ましい配役」についていないとき、大多数の人々は「自分が無い」あるいは、「居場所がない」と感じます。

まとめると、<「自分」とは、共同体において自分が「望むものがたり」の「望む配役」でありたいという願望、共同体から除名される恐怖の裏返しである情動であるところの「自己愛」というスクリーンに投影された、共同体の他の構成員からの視線によって意識される私>ということになります。

肉体というレンズを通して、共同体の「ものがたり」を表している他の構成員からの視線が、自己愛というスクリーンに結んだ像が「自分」です。(続く

*第2章の要約


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