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哲学対話の「現場」をつくるには|TOI Magazine 002|Postface

さて、ここで冒頭の問いに戻ろう(Preface by tagai)。

「インターネットを使ったコミュニケーションが当たり前になった現代で、現場へ赴き、対面で話をする意味とはなんだろう。」

今回のTOI Magazineは、「哲学対話の現場」をテーマとして制作した。ここでいう「現場」とは、「その場でしか感じることができない“何か”が生まれる場所」を意味している。

したがって解題するならば、「哲学対話が行われる場でしか生まれない“何か”がきっとあるはずであり、その“何か”とはいったい何で、なぜそれは生まれるのか」。この問いに答えるべく、今号の制作はスタートした。

その背景にあったのは、これまで毎月、吉祥寺のブックマンションという場所で哲学対話を開催してきたTOIのメンバーが、一様に「現場の力」を感じていながらも(ここでは何かが起こっている)、それを言語化し、伝えていく難しさに同時に直面していたことだ。

五十嵐さんへのインタビューも、そのような問題意識で行われた。五十嵐さんは、TOIが主宰する哲学対話イベント「Think Out!」よりも遥かに長い歴史を持つ哲学対話イベント「ソクラテス・サンバ・カフェ」の主宰者であり、自らもその現場に(五十嵐さんいわく「毎回ではない」にせよ)身をおいてきたその人である。そして、筑波大学で教鞭をとる哲学のプロフェッショナルでもある。きっと何か、光り輝く水戸黄門の印籠のごとき答えを持っていらっしゃるに違いない。

結果、我々の甘い期待が見事に打ち砕かれたことは、インタビューをお読みいただければわかるかと思う。五十嵐さんは、「哲学対話とはこれこれこういう経験ができる場所だ」と断定してしまう危うさを指摘されたのだ。もしここで哲学対話を「言葉」で記述してしまったら、それを読んだ参加者の経験は、自ずと規定されてしまうことだろう。だが本来、そこで何を経験するかは全員違っていていいはず。その豊かさこそが、哲学対話の本質ではないか(と、筆者は理解した)。

筆者らはただ、安易に「答え」を求めようとした自らを猛省するほかなかった。しかし、そのまま肩を落として夕陽を背に帰路についたかといえば、決してそうではない。むしろその逆だ。五十嵐さんは、「哲学対話の現場は、どのように生み出されるのか?」という点において、とても大きな示唆を与えてくださったのだ。

詳しくはぜひインタビュー本編をお読みいただければと思うが、本稿では3つだけ、ピックアップしてご紹介したい。

1.「場の力」を信じる

五十嵐:基本的には「私のファシリテーション!」ではなくて、「場の力」があると思っていて。いらっしゃる方は毎回違うので、その都度何が生まれるか、どんな関係性が生まれるかはわからないんですよね。それなのに私が無理に場を作ろうとすると、自然な「横」の関係性ができないまま終わってしまう。だからある程度みなさんにお任せして、なんとなくの雰囲気で場が形成されるようにします。「今日はこの辺に集まっているな」とか「今日はわりと離れているな」とか。それを見てちょっと助けてあげて、そうして、だんだんと場が温まってくればいいかなと。(第2回「『答え』ではない、その人の『声』が出せる場所をつくりたい」より)

今回、五十嵐さんのお話を伺っていて最も強く印象に残ったのがこの点だ。五十嵐さんは、とにかく「こういう場にしよう」とコントロールしようすることは一切ない。ラディカルといえばあまりにラディカルであり、「それでうまくいくだろうか……」と、常人なら不安になっていろいろ「介入」しようとしてしまうところ。

でも、そこをぐっとこらえて、成り行きを見守る。そして、気づけば生まれている「場の雰囲気」を敏感に感じ取り、それを最大限に開花させるべく、ワールドカフェをはじめとしたさまざまなトリガーを導入する。

こう書くといかにもテクニカルだが、要は「場の力を信じる勇気」を持てるかどうか、なんだろうと思う。

2.話しやすい「空間」をつくる

五十嵐:ひとつ言えるのは、話しやすい「空間」をつくるということですね。「アフォーダンス」という考え方があると思うんですが、どういう空間が話しやすくて、どういう空間が話しにくいかということは、最初の大学で哲学カフェのスタイルの授業をやったときに学生たちとよく話しました。
 たとえば教室には、「教室」という記号がいっぱい張り巡らされている。前方に大きな黒板があり、教壇があって、机が整列して並べられている。人間のあり方というのは、そういう「記号」によって大きく左右されるんです。それを変えないまま、教室に入ってきた学生にいくら「自由に話してください」と言っても、学生がしゃべらないのは当たり前。学生に話してもらうためには、学生の目に入ってくるアフォーダンスを変えることが必要なんです。(第2回「『答え』ではない、その人の『声』が出せる場所をつくりたい」より)

筆者が初めてソクラテス・サンバ・カフェに参加したとき、会場である筑波大学茗荷谷キャンパスの教室に着いて最初に思ったことがある。それは、「あれ、ここの主宰者って誰なんだろう……?」。「まさかそんなこと」と思うかもしれないが、本当である。

イスが円形に並べられていたから? いや、そうではない。そのことは事前に読んでいた本にも書いてあったから、別に驚きはしなかった。じゃあなぜそう感じたかと言うと、「誰もその場を仕切っていなかった」からだ。

その理由を、今回のインタビューを通じて初めて知ることができた。つまり、五十嵐さんが最初の大学で自発的な対話を生み出すために「先生 - 生徒」という上下関係を取り払ったように、ソクラテス・サンバ・カフェでもまた「主宰者 - 参加者」という関係を取り払っていたのだ。だから、初めてその場に加わった筆者が「主宰者が誰か」わからなかったのである。

おおいに納得した次第だが、それにしてもあのときはビビったな。

3.「縦の対話」を大切にする

五十嵐:同調の場であってもいいんです。たとえば、一緒に話をしていて、口では「そうですよね」とか「わかります」とか言っていたとしても、本人の心の中では「そうじゃない」と思うときがある。これを本人の中の「縦の対話」っていうんですが、この縦の対話が起きていることが大事です。現実に起こっている、人と人との間の「横の対話」ではたとえ同調しちゃったとしても、そのあとモヤモヤして、「やっぱり自分は本当はそうは思わない」と縦の対話が自分のなかで続いていく。それも、対話のいいところなんです。(第3回「誰もが明日、新しく生まれる自分を許せたら」より)

これもまた、「場の力を信じる力」の為せる技だと思う。運営をする立場からすると、「哲学対話のイベントなんだから、そこで起こる対話には(平時では得られない)新しい発見がなければならない」と、強迫観念のように考えてしまうもの。そうして、焦って「ファシリテーション!」をした結果、場の力が失われ、結局「対話のための対話」だけで終わってしまう。

そういう反省が、確かにあった。だから、五十嵐さんのこの言葉は、運営する立場にある人間にとっては大いなる救いに感じられると同時に、それもまた、少なからず勇気のいることだなあとも思う。だって、縦の対話は外からは見えないのだから。

でもその勇気こそが、ソクラテス・サンバ・カフェのような特別な経験を生み出すのだ。

以上が、五十嵐さんへのインタビューによって得られた示唆の(ほんのごく)一部だ。きっと、我々以外の哲学対話主宰者の方々にとっても、多くの気づきがあることと思う。

とりわけ、「オンラインで哲学対話をする」という、例えるなら「プールなしで水泳をする」とでもいうべき未知のチャレンジに直面している現状においては、五十嵐さんの「実践の知」が大いに生きてくるのではないだろうか。

さしずめ、冒頭の問いをこんなふうに問い直して、締めくくりとしたい。

「どうすれば、オンライン哲学対話で『現場』をつくることができるだろうか?」

(text by matsuishi)

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