見出し画像

誰もが明日、新しく生まれる自分を許せたら──哲学者・五十嵐沙千子さんインタビュー(3/3)

申込み不要。参加費も無料。テーマも決めない──そんな独自のスタイルを貫く哲学カフェが、毎月2回、茗荷谷と筑波で開催されている。主催するのは、筑波大学で教鞭をとる五十嵐沙千子さん。聞けば、ほとんどボランティアとしてこの活動を続けているという。ハイデガーやハーバーマスを専門とする哲学の研究者でもある五十嵐さんは、なぜプライベートの時間を使ってまで「哲学対話の現場」をつくり続けるのか。そこには、どんな思いが込められているのか。五十嵐さんのファンを公言してやまない運営メンバーの3人が、都内某所にあるカフェでインタビューを行った。全3回に分けてお届けする。
ルールは設けず、「フルメンバー・フルタイム」を大切にすることで、日常では発する機会のない「声」を出せる場所をつくりたい──そんな思いで哲学カフェを長年運営してこられた五十嵐さん。最終回となる第3回では、五十嵐さんが理想とされる社会のありかたと、そこで生きる一人ひとりの生き方としての「哲学」について、お話を伺った。(interview by matsuishi, kinoshi, tagai)

■ 個人が抑え込んでいる声を「挙げて」いく

──いま、企業でも哲学対話を取り入れる動きが出てきています。ソクラテス・サンバ・カフェのウェブサイトでも「会議」や「組織」の相談を受け付けていらっしゃいますが、実際にやられてみて、どのような感触をお持ちでしょうか。

五十嵐:まず、企業で話を聞いていると、それこそ業績が伸びなくて困っていたり、個々人が自分のあり方に自信が持てなかったり、さまざまな問題があるということが分かるんですね。そこで、その問題を取り上げてみんなで哲学カフェをすると、不思議と人間関係が良くなるんです。
 たとえば、ある人が抱えている業務上の問題に対して、その会社の多くの人が「それはあなたの問題でしょ」と他人事だったのが、対話をすることで関心を持つようになる。「これは無駄だよね」とか「ここって本当はみんなで一緒にやればすぐだよね」というふうに一緒に考えるようになった結果、業績も良くなるケースが多いんです。

──役割に縛られてガチガチになっていたのが、対話的になることによって、お互い、本当は言いたかったことが言えるようになるんですね。

五十嵐:頼めなかったことを頼めるようになるし、一人ひとりが個々の問題を別々に考えないといけなかったのがお互い協力できるようになって、縦割りで分断されていた組織が変わって、全体をひとつの仕事と考えてみんなで組織を合理的に再構成できたりしますね。
 会社では普通、個人個人の業績が比べられるので、自分が上司にどう評価されるのかしか考えなくなる。だから自分の不都合なことは隠すし、良いことだけアピールするようになります。当然お互いの信頼関係もできないから、困っても相談できない。だからますます困ってしまう。良い関係ができないって、業績が上がらない最大の原因ですね(笑)。
 哲学カフェをすると、そうした人間関係の壁が取れて、空気がどんどん明るくなっていくんですね。自分を繕うために不合理なことをしてしまっていたのが、もうそういう必要がなくなっていく。
 私はマネジメントの専門家ではないので何かの理論を上から教えるということはしないのですが、参加者の人たちから出てくるアイデアをみなさんに形にしていただいて、みなさんにトライしていただく。それがすごく面白いですし、参加者の皆さんのモチベーションも研修が続けば続くほど高まって行くので、本当に感動してしまいます。

──それがいち企業だけじゃなくて、社会全体もそうなるといいですね。自己責任だと言って自分のなかに閉じこもるのではなくて、お互いでより良い社会を作っていこうとするような。

五十嵐:法的には一人ひとりに責任が帰属するとはいえ、私たちは別に孤立して生きているわけではないですからね。それなのに孤立して生きていると思っているから、今回のコロナみたいにトイレットペーパーの買い占め騒動が起きる。みんなで生きている、という自然な感覚を取り戻せたらいいなと私は思います。
 そのためにはやっぱり、個人のなかに抑え込んでいる声を聞いていく、挙げていくということが必要で。そして、それに対して別の誰かが「自分の声で」答えていくということも。それが自然に起きて、ちゃんと守られる社会を「成熟した社会」と言うのかなと思います。

──ただ、なかなかそうしづらい状況が日本社会にはあるのも事実です。

五十嵐:「意見」は言えるんですよ、みなさん。でも、「感情」は言えないんです。感情レベルの声を、自分で聴いてあげてもいないし、まして人の前で言うことはできない。
 学校もまさにそう。「いま自分はどうすればいいか」という問いは全員が持っている。「何を言えばいいのか」とか「どうすればいいのか」という。それは、親だったり先生だったり周りの友だちだったり、いつでもそれを評価する人が周囲にいて、その人たちの顔色を見て、その人たちに承認してもらおうとしているから。みんな「正解探し」で生きているんですね。
 でも本当は、「どうすればいいんだろう」ではなくて「私はこう思う」でいいし、間違っていい。

画像2

──そこを、哲学カフェの現場を作ることによって、少しずつ変えていく。

五十嵐:私には「(社会を)良くしてあげる」という気持ちはなくて、「自然な状態に戻す」というほうがしっくりします。本当は誰しも本音があるのに、長年押し殺してきたせいでそれがわからなくなってしまっている。それは不自然な状態です。自然な状態であれば、自分の声は自分の中から出てきますから。だから、「良い社会」ではなくて、「自然な社会」。それが私はすごく好きです。良い悪いではなくて、自然で、自由であること。その人のままであること。

──まさに、「私らしさってなんだろう?」ですね。

五十嵐:小さいときから続いていますね(笑)。
 もう一つ、母とのこととは別に、幼稚園での体験も大きいと思います。私が通っていた幼稚園で、あるとき園児たち全員が園長先生に叱られたことがあるんです。別に大したことじゃなかったのですが、とにかく園長先生が「みんな園庭に出なさい」と言うので、園児40人全員が園長先生の後について園庭に出たんですね。
 それで園庭の端まで来たとき、園長先生は園児たちの方にくるりと振り返って「あなたたちみたいな悪い人は、もう明日からここの園の子じゃありません」と言って、私たちを置いてそのまま園舎のほうに戻って行ってしまった。すると次の瞬間、園児たちは口を揃えて「園長先生ごめんなさい!」って園長先生の方に一斉に走っていったんです。
 私、それを見てびっくりしてしまって。呆然としていたら、そのままひとり園庭に残されてしまいました(笑)。

──なんと(笑)。

五十嵐:別に「私は走らない」と決心したわけじゃないんです。ただ、何も考える前にみんなが走って行ってしまった。みんな、何が悪かったのかもわかっていないんですよ。それなのに、なんで「ごめんなさい!」って走って行けるんだろう?って思って呆然としてしまったんです。
 いまから思えば、みんな不安から走っていたんだなとわかります。「園長先生に見放されたら終わりだ」って。でも私には、そういう「先生に受け入れてもらわないとダメ」という気持ちがなかったんですね。
 その後そのままずっと立っていたら、他の先生が呼びに来てくれて。園長先生もきっと、みんな来ると思ったらひとりだけ来ないから、「あら、どうしよう」と思ったと思います(笑)。

──個人的に、いまの日本社会のあり方に対しても同じように感じるところがあって。自分が属している集団に見放されたら終わりだ、だからおとなしく従っておこう、という。そしてそれに抗う力として、哲学カフェはすごく機能するなと思う一方で、どうしても規模的には限界があるとも感じていて。だからといって、ずっと小さい規模で留まっていたら状況は変えられない。そういうもどかしさに対しては、どう思いますか。

五十嵐:私の基本的な考え方として、「ゼロではない」というのがあるんですね。最初に赴任した大学で哲学の授業をしたときも、他の先生方から「それで哲学を教えたことになるのか」と言われたりもしたんですが、私としては、いくら哲学についてシリアスに講義をしても誰も聴いていなければ「ゼロ」だと思うんですね。であれば、すごく初歩的なことだとしても、学生たち自身から出てきたことをみんなで考えるほうが、ゼロではないと思えたんです。
 そしてその結果、思ってもみなかったことが起きたりする。みんながずっと残って話してくれたり、「朝練とか夜練よりもこの授業が一番疲れる」とか言ってくれたり、みんなが自主的にハイデガーの勉強をしてくれたり。
 いま私が哲学カフェの運営をしているのも、「こういうふうにしたい」という気持ちはそこまでなくて。何が生まれるかは重要ではないんです。哲学カフェが「ある」ということだけで、私はゼロではないと思う。

■ 明日、新しく生まれる自分を許せるためにこそ「哲学」はある

画像4

──では、「哲学とは?」という問いに答えるとしたら、なんと答えますか。

五十嵐:そうですね……哲学とは、「変わっていくこと」でしょうか。「生まれていくこと」と言ってもいいかもしれない。自分が明日どうなるかは、本当は誰にもわからない。でも、みんなはわかっていると思っていて、「明日の自分はこうしようこうなろう」とコントロールしている。それって私は、とても不自然なことだなと思うんです。
 人は誰しも、「明日の自分がどうなるかわからないと怖い」だろうとは思います。でも、「明日の自分」は「今日はまだ無い自分」だから、今の自分が変わって当然だし、新しく生まれる自分であっていいはず。明日はみんなに平等にやって来ますからね(笑)。だから明日一緒にいる人たちと、明日の自分として新しい関係をつくっていけばいい。そう思って生きることが、私の考える「哲学」なのかもしれません。

──昨日までの自分に囚われずに生きる、ということですか。

五十嵐:別の言葉で言えば、「解放する」ということですね。解放というとよく、社会からの縛りを解き放つ、みたいに思われがちなんですが、そうではなくて。自分を明日に向けて野放しにする、自分を自分で、自分から解放してあげるというイメージです。
 ソクラテス・サンバ・カフェの「サンバ」は、踊りの「サンバ」と、生まれる手助けをする存在としての「産婆」をかけていて。哲学とは「生まれていくこと」であり、解放されていくこと。その手助けをする存在として、ソクラテス・サンバ・カフェはありたいと思っています。

──ソクラテスやハイデガーのような、いわゆる「哲学者」と呼ばれる人たちもまた、哲学を通じて自分を解放している?

五十嵐:思想の中身はみんな違うと思いますが、でも彼らはみんな、思想の中身においてではなく、生きるという実践においては共通しています。今日にはない考え方を明日生む、今までの考えを全部捨ててもいいから、明日もっとわかりたいと思って生きている。そういう生き方をしている人が「哲学者」なのだと私は思います。
 私たちが「アリストテレス」や「カント」という言葉を耳にしたとき、そこにひとつの「哲学の体系」があると思いがちですが、実はそうではないと思うんですね。だって、アリストテレスもカントもみんな「途中」で死んでるんです。だから誰も「体系」を完成させてはいないし、途中までできかかっていたとしても、生きていたらきっとそれを壊して、もっと違う形を作っただろうからです。

──毎日毎日、作っては壊して、結果としてたまたま、いまあるような「アリストテレスの哲学」になったけれど、もしあと10年生きていたら全然違うものになっただろう、と。

五十嵐:だから、ハイデガーとかアリストテレスを読むとすごく勇気が出るんですよね。昔の哲学書でも、それを書いたときは現在進行形で、ある意味で迷いながら書いているわけですから。
 実際、彼らは「今こう思うんだ」って書いてたりするんですよ。その彼らの声が本の中でずっと消えずに残っていて、ページを開けばその声が立ち上がってくる。その声と私が本の中で会っているわけです。私はいま、シェリングっていう、ヘーゲルのちょっと後の哲学者にハマっているんですが、彼の本に対しても「そう思う」とか「私はそう思わない」とか言いながら読んでいます。

画像4

──なかなか、カントやハイデガーを相手にそんな勇気は出ないですね(笑)。

五十嵐:でもほら、「ゼロではない」ので(笑)。仮に私の読みが間違っていてもいいんです。だんだん出会って彼らと話していけば、きっと少しずつわかっていけると思うから。
 「わからないといけない」と考えるのは「ギャップ・アプローチ」って言うんですが、それだと息苦しいので、「0点ではないよね」っていう「ポジティブ・アプローチ」で行くとすごく楽ですね。

──哲学対話をやっていると、たしかに「新しく生まれる」瞬間があるなと思うんです。自分とは異なる意見を持つ他者と出会って、それまで思っていたことが間違っていたと気づく瞬間に遭遇する。

五十嵐:まさに「産婆」の場所ですね。たとえば、ソクラテスの「産婆法」と呼ばれる対話があって、それは、相手をどんどん問い詰めて、相手が正しいと主張していたことに実は矛盾があったたことに気づかせるんです。だから、ソクラテスと話して、相手はみんな嫌な気持ちになっちゃう(笑)。

──自分の中の嘘に向き合わされちゃうんですね。

五十嵐:誰かが言ったことをそのまま鵜呑みにして「これが正しいんだ」って言っている人に、「なんで正しいの」ってどんどん聞いていって。結局正しいっていう根拠はなかった、ということに気づかせたりする。それで嫌われて死刑にされちゃうんですよね。
 でもその過程で、「これこそ自分の意見だ」と思っていたことが単なる受け売りだったことに気づく。しかも、受け売りの意見に自分はすごく縛られていたということにも。その人たちが、じゃあ本当の自分って何なんだろう、と考えたときに、そこで新しく「誕生」するわけです。誰かの奴隷にされていた魂が、新しく自分の魂として生まれ変わる。だから「産婆術」なんです。

──ただ現実には、なかなかソクラテスのようにはできない面もあって。どうしてかと考えると、ひとつには同調しやすいから、というのがあると思うんです。誰かが言ったことに対して、本当は違うかもしれないけど「たしかにそうだと思う」って言ってしまう。そうすると結局、そんなに考え方が変わらない。

五十嵐:同調の場であってもいいんです。たとえば、一緒に話をしていて、口では「そうですよね」とか「わかります」とか言っていたとしても、本人の心の中では「そうじゃない」と思うときがある。これを本人の中の「縦の対話」っていうんですが、この縦の対話が起きていることが大事です。現実に起こっている、人と人との間の「横の対話」ではたとえ同調しちゃったとしても、そのあとモヤモヤして、「やっぱり自分は本当はそうは思わない」と縦の対話が自分のなかで続いていく。それも、対話のいいところなんです。すべてを口に出そうとしなくてもいい。表面で起こっている横の対話の中で同調があるとしても、それは気にしなくていいんじゃないかなと思います。

──確かに、ソクラテス・サンバ・カフェが終わった後はずっともやもやしているんですけど、それって内側で縦の対話が起きているからなんですね。だから、行くと楽しいんですけど、夜眠れなくなるので勇気がいる(笑)。夢に出てくるんです。

五十嵐:そこまでガチで話してくださると嬉しいです。

──でも、ソクラテス・サンバ・カフェって、参加者の皆さんがガチなんですよね。どこかスポーツに似ていて。

五十嵐:みんなガチで、一緒に、ひとつの目的に向かって協力するんですよね。たとえばアメフトだと、相手チームと体と体で、汗を流してガチでぶつかりあう。私たちは文明人なので普段は距離がありますけど、そういう「心の距離」を取っ払ってぶつかりあう。本当にガチで戦えたときは、勝っても負けても、相手や仲間に対して「ありがとう」と思える気持ちになれる。哲学カフェもそれと同じで、普段は社会的な距離がある相手と、ガチでぶつかり合う。だからスポーツと感覚が近いんだと思います。

──キーワードは「ガチでやる」ですね。ソクラテス・サンバ・カフェ、また3人で遊びに行きますので、そのときはガチでよろしくお願いします! 今日はありがとうございました。

五十嵐:ええ、いつでもいらしてくださいね。お待ちしています。(全3回・完)

─ INTERVIEWEE PROFILE ─

画像1

五十嵐沙千子(いがらし・さちこ)
筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻単位取得退学。博士(文学)。東海大学文学部講師を経て筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻准教授(現職)。2009年から市民のための哲学カフェ(筑波大学哲学カフェ「ソクラテス・サンバ・カフェ」)を主催。主な著書に『この明るい場所—ポストモダンにおける公共性の問題』(ひつじ書房、2018)などがある。

よろしければサポートいただけますと幸いです。いただいたサポートは哲学対話を広げるために使わせていただきます。