見出し画像

お酒

(※ 本稿、個人的な体験ベースを基にした、発想の転換についての考察であり、お酒、タバコ、薬物などの依存症から真摯に脱却されようとしている方々へ、何かを指南、示唆するものでは毛頭ありません。ご了承ください。)

禁酒

昨年ある日、ふと思い立って、お酒をやめた。

簡単に言えば、健康上の理由だが、決して飲んではダメとまで、医者に言われた訳でもない。ただ、普段飲まない生活をした方が、日々が快適であることがわかり(まあ、もう何年も前から、うすうす、そうだろうなぁ、とは思っており、実際、数週間身をもって実証したことも何度かあるのだが…)、何度か、激しく胃腸を壊した後に、しばらくやめよう、と。

同僚と夜食事に行った時、友人とのゴルフの後、さまざまな場面で、いつも浴びるほど飲んでいた自分が、本当に飲んでいないことをことを確認すると、反応はさまざまながら、怪しい、残念、裏切られた、寂しい、へぇ〜、いろんなことを言われたりもしたが、まあ、飲んでも飲まなくても大して変わらないくらいに、こちらがいつもの通り、やっぱりヘラヘラしてるので、相手も、ま、いいか、と最近はつっこまれなくなった。

禁じてる訳ではない

「そんなに無理しなくても、たまには一杯くらいいいんじゃない?」と言われることもあるが、無理も何も、単純にアルコールを飲みたいと思わないだけであって、むしろ飲みたくないものを飲むことの方が「無理」にありつつあるのだから、実は、「禁酒」という表現も正しくないのかも知れない。
小生、考えてみると、ここ2、3年、ココナッツミルクを飲んでいない気がするが、だからと言って、誰も「禁ココナッツミルクをしている」とは表現しない。Milo、ラムネ、チェリーコーク、など、もうかれこれ何十年も飲んでない飲料水は枚挙にいとまがなく、それを、「私、現在、禁酒、禁ココナッツミルク、禁Milo、禁ラムネ、禁チェリーコーク中です」と自己紹介するのも何だか面倒くさい。
要は、たまたま、2、3ヶ月酒を飲んでないというだけであって、この先、一生、酒を飲まないと決めた訳でもないのだ。
事実、今年の正月、久しぶりに田舎で、(こちらは医者からのアドバイスもあって普段はお酒を控えている)高齢の父親に、「飲もうか」と言われたときは、何も考えずに「そだね」と言って、久方ぶりに酒屋にワインやら日本酒を求めに行った。

インターバル

考えてみれば、毎日晩酌することを楽しみに生きていた時期であっても、今宵、いい気分になってヘラヘラしたところで、翌日飲むまで、20時間程度飲んではいない訳で、言ってみれば20時間は禁酒してるわけだ。
それが、2、3日になることもあった訳で、つまり、今もそれがたまたま、数ヶ月単位のインターバルになっただけと言える。

禁煙

逆に考えれば、何かを禁じよう、と考えた時、もう金輪際、もう一生これはやらない! と誓うと、その決意の重みに躊躇するが、ちょっとインターバルゆったり取ってみようか、と考える方がうまく行くこともある。
実は、もう20年前くらいになるか、小生、禁煙した。
とりあえず禁煙と記したが、当時も似たようなことを考えていた。
そもそも「この一本を吸ってから、次の一服に至るまで、30分禁煙してた。つまり、私は、毎日毎日禁煙してるんですよぉ。」と豪語していたのだが、ちょっと健康、日々の体調、寝覚めの良さ、そのほかを考え、次の一服へのインターバルを大きくしよう、と考えた訳だ。
元々、天邪鬼な性分もあり、過大なる決意をしたところで、すぐに「裁判長、異議あり!」一人で反証を試みてしまう悪い癖があって、そもそも、何だかもう一生タバコ吸っちゃだめって言われると吸いたくなるもの。
なので、「あ、別にタバコやめた訳じゃないんですけど、ちょっと今はいいです…」なんて、喫煙仲間にも、あえて煮え切らない態度を…
さらには、きちんと自分の机の上の見えるところに、あえて一箱、タバコを置いておいたりもした。
流石に、その、余計なタバコ一箱は、異動や引っ越しを繰り返すうちに、どこかに行ってしまったが、依頼、タバコ一本を喫する感覚が、今のところ約20年程度、と長引いてしまっているだけである…

視点をどちらに置くか

つまり、人は、溺れすぎてはまずそうな誘惑に対峙する場合、

  • どっぷり、ドロドロと誘惑にまみれて、やっぱ、これ最高! これを知らないやつ、ほんと、かわいそう… と呟く

  • 完全に、清廉潔白、縁を切って、高い防護壁を作り、対岸から眺める、ほんと、これをやめられない人たち、ほんと、かわいそう… と呟く

と、視点をどちらかに完全に振り切って考えがち。
そうではなくて、

  • 今は、たまたま、自分飲んでるけど、人生シラフで楽しかった時代もあるし、あれはあれでいいよね。また、自分もシラフで過ごすこともあるかも知れないし、とにかく毎日楽しく過ごしたいよねぇ。

  • 今は、たまたま、自分飲んでないけど、人生飲んでて楽しかった時代もあるし、懐かしいなぁ。また、飲むこともあるかも知れないし、とにかく毎日快適に過ごしたいよねぇ。

て、その両極の中間地点に立って両岸を眺められる方が、実は、自分に取って、より確かな足取りで道を進めるのではないか。
そうでないと、両極に立つ人間の方が、何かのきっかけで、反対側へ見事に転換しかねない。私もそうしてきたのだし、まあ、そういうあっち行ったりこっち行ったり、て経験も必要だけど。

人生の選択肢

そう考えると、もはや話は、溺れすぎてはまずそうな誘惑だけに限らない。
人生の岐路に立ったとき、つまり、学業における進路選択、ひいきの野球チームや会社での派閥の選択、幼稚園でのはないちもんめのチームわけ、学校の座席、合コンでの立ち位置、3またかけてる異性、ランチでカツ丼セットにするか生姜焼き定食にするか、などなど、我々は自分なりの理由をつけて、さまざまな選択をしていく訳だが、その選択する理由に過度な正当性は求めなくてもいいということだ。

たまたま、今は、こうしてるけど、そのうち、そっち行くかもよ、くらいで。

どんなに重要と思われる選択肢であったとしても、直感で、これだ、と思えば突き進めば良いし、ある程度進むうちに、あれ、これは違ったと思えば、逆に進めば良い。

器用な人、あるいは、調子がいいときは、それが無意識にわかってるから、フットワーク軽く、一旦進んでる道からそれていくことに迷いがない。
不器用な人ほど、器用な人でも一旦調子が狂うと、選択肢の重み、理由づけ、を意識しすぎて、足が止まる。
そして、片側の立ち位置に立って、反対側を眺めようとする。
それも必要なプロセス。
ただ、最終的に、対岸に立って反対側を観察する、よりも、お互いの境界が曖昧な湿地に足を踏み入れ、自分の身体感覚の反応を頼りに前に進むこと。
それが重要なんだと思う。

不器用の代表のような生き方をしてきたこの50年あまりで、ようやく気づき始めてきたことでもあるが…

いや、もしかすると、自分の決断能力の無さを正当化するために、このようなことをわざわざ記しているのか…
そもそも、引き返そうと思ったときには、引き返せないこともあるじゃないか。
それは残念ながら事実だ。
それでもなお、違う道が必ずあるはず、と信じている、50年幾ばくかの経験と直感から。

事実、現在、3年前に選択した、とある決断に対し、今、多少の後悔と、いやそれはそれで良かったのだという心の声と、両者を受け止めつつある自分がいる。
受け止めつつ、前向きな次の一歩を踏み出す準備中ではあるのだが…

うーん、ちょっといろいろ振り返ると、懐かしさと、後悔と、感謝と、祈りと、希望と、決意と、いろんな思いがないまぜに…

今日は久しぶりに、いっぱい飲んでもいいかな、なんて…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?