見出し画像

音楽から見る宗教差


和楽器と西洋楽器

先日、姉と話していて、凄く盛り上がった話があったので、忘備録として遺しておく。
話は姉の外国人の友人の体験談から始まった。
その友人が日本で和楽器を学ぼうとした際に、
「弾き方から音の紡ぎ方まで、一から十の全てを指導された。
とりあえず好きなように弾いてみろと言われるヨーロッパとは大きく違かったんだよね。」とこぼしたそう。
それを聞いて自分は”作法”にうるさいなんて、なんだか和楽器の演奏って”宗教行為”に近いんだなって感じた。

でもふと考えると和楽器って物凄く宗教色の強い楽器のような気がする。
和楽器バンドなんてグループも、欧米の影響を受けてつい最近できたもののような気がする。
けれども、現在も和楽器の主な使い道は能や歌舞伎であったり、神楽や祭りで用いられる。

対象先の差

和楽器と西洋楽器では音楽の対象が大きく異なるように思う。
「神」か「人」か。
ほとんどすべての音楽は宗教行為に基づく。
西洋も例外なく基はそうだ。
最も一般的かもしれないピアノも元々は神にささげられた曲が多かった。
しかしジャズピアノに始まり、”人を楽しませる”ことに特化した音楽がすごく多いように思う。
地球の裏側のブラジルのサンバも、元は豊穣を祈願していたのかもしれないが、煌びやかで人間を楽しませる踊りになっている気がする。

一方で日本の音楽は古来から、さほど変わっていないんじゃないのか。
未だに神や仏に捧げる主旨は変わらず根底にある
能や歌舞伎は人間を楽しませるという見方もできなくはないが、使用場所である能楽堂であったり、奉納公演と呼ばれる神や仏への奉納するための公演であったりと、神へ向けた音楽が主であり、人間はあくまでもそれに付随する副産物でしかない。
実際、”音楽”というmusicへの訳語は明治以降に作られたらしく、本来の語源ではないものの、「音を楽しむ」という訳語には非常に西洋的人間のエゴを感じ取る。

宗教の差

では何故、音楽の対象先がここまで異なるのか。
それを紐解いていくために、まず宗教の差について綴る。

一神教と多神教

誤解がないように、欧米におけるキリスト教・ユダヤ教・イスラム教と、日本における神道・仏教とを比較する。
これらの根本的な差は何なのか。
それは一神教か多神教かの違いだ。
この世に神が一人しかいないと考えるか、神や仏の存在が多数存在するのかの違いだ。
何故この差が生まれたのか。
そこには大きな民族の違いに依るものがある。

遊牧民族か農耕民族か

西洋の遊牧を生業とする民族か、日本を含めた東洋の農耕を生業とした民族か。
この民族差こそが一神教か多神教かを分けた重大な違いなのである。
家畜と共に集団で移動する遊牧民族にとって、移動先の決定は集団の安否に直結する。
彼らにとって必要だったのは、巨大で強い一人の決定者だったのだ。
そしてそれが一神教たる所以である。

一方で一所に定住する農耕民族。
頻繁な移動のない農耕民族にとって、一人の決定者は必要ない。
しかし、民族にとっての飢餓の恐れは変わらない。
農耕をする上で水や土、太陽など複数の要素が絡み合う。
豊穣の祈願に際し、これら別々の要素に神を立て別々に祈願するというのは至極当然なことだ。

自然に対する考え

それに加えて自然に対する考えも大きく異なる。
転々と移住する遊牧民族にとって、「自然とは管理できるもの」なのだ。
そもそも家畜という自然を管理し、移住先の自然をあくまでも利用する。
自然災害にあったとしてもそれは神の与えた試練でしかない。
仮に集団が自然災害によって全滅したとて、それは自然災害に遭うような場所を移動先に選んだ決定者が悪いのであって、自然自体を呪うということはない。

それに対して、定住する農耕民族は「自然とは共生するもの」だ。
そもそも農耕という自然の力をもとに生活する民族。
同じ場所に住み続けることで遭う自然災害は、遊牧民族にとってのそれとは毛色が異なる。
遊牧民族にとって「運が悪かった」と片づけられる自然災害は、農耕民族にとっては畏怖の対象でしかない。

そしてこれは”庭”の形態の差に大きく表れる。
西洋の庭とは人工的で、左右対称で、均一で、人間の手が入っていなくてはならないものである。
東洋の庭とは不均一で、人間の手は調整するためのみであり、基本的には自然のままのものである。

世界観

ここから見えてくるものがある。
それは各宗教の世界観だ。
西洋の宗教にとって、自然と神とは切り離されている。
つまり彼らにとって、この世界はいわば”人間界”であり、”神の世界”とは全く別のところに位置しているのである。
この人間界を神が常に見下ろしていて、人間界の中のものはすべて自分たちの好きなように使ってよい
そういった世界観が彼らにはある。

東洋、特に日本においてはこれは真逆だ。
自然と神とは切っても切り離せず、一体化したものだ。
私たちにとって、この世界は”神の世界”だ
神が住んでいる世界に”お邪魔させていただいている”
そんな感覚があるのは間違いないだろう。
神と共に住ませてもらってる世界なのだから、神を畏れ、自然を敬う。
そんな世界観が根本的に違うのである。

宗教と音楽

となれば、音楽の対象先が異なることにも説明がつく。
この世界が”人間のもの”なのか、それとも”神のもの”なのか。
音楽を楽しむのが人間なのか神なのか
音楽を届けたいのが人間なのか神なのか

日本は古来から神と共に生きてきた。
だからこそ音楽を奉納するし、人間はこの世界においてあくまでも神の副産物でしかないんだろう。
音楽は神の為に。
楽器の弾き方一つが”作法”になるというのは、その楽器が人を楽しませるものではなく、神を楽しませるものであるからだろう。
お経を唱えるように、祈祷するように、神に向かって舞うように、神に向かって楽器を弾く。
恐らく日本舞踊とダンスの違いも本質的にここにあるんだろう。

この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,857件

#この経験に学べ

54,974件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?