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天才は存在するのか

この世に”天才”はいるのか。
”天才”が「理解できない域にいる人間」という定義とするなら、多分いない。
分野が異なりすぎて理解できないことはあるかもしれない。
けれどもきっと誰から見ても理解できない域にいる人間など存在しないのだと僕は思う。
どんなに優秀な人間も、その分野にかけた時間というのは絶対に存在するから。

「あなたの周りの天才は?」という質問に出てきやすいのは、授業中にずっと寝てたけれど合格したアイツ。
それはあなたの前では寝ていたのであって、他の所では勉強してたんだろう。
それを勉強と呼んでいないかもしれないが、勉強に準ずる遊びは何かしていたはず。
それすらしていないという人もいるかもしれないが、人生全体における総勉強時間で言えば、小中に遡ればどこかで必ず勉強をしていた。

この考えは結構精神安寧上大事だと思う。
自分よりやっていない人が何か成績を出していたとしても、それはなんら不思議なことじゃない。
自分の目の前ではやっていないだけ。
自分と出会うよりはるか昔に研鑽を積む時間があった。
その分野にかけた総時間で言えば向こうの方が上。
だから仕方がないと思えるだけで、ある程度気持ちは楽になる。

とはいっても「才能」というものは存在する。
僕にとっての才能とは、「時間に対して得られる成果の多さ」
要するにコスパの良さにある。
呑み込みの速さ、体得の速さ。
体格の良さなんかもそうかな。
ここはどうしたって才能がモノを言う。

分野が違い過ぎて天才だと思える人は多い。
大谷翔平とか?
野球をしたことのない僕にとって本当の意味でその凄さは分からない。
あんなにバンバンホームランを打つことだったり、球速160㎞の球を投げることは、周りと比べて凄いの”だろう”という理解しかできない。
よくわからないから、天才だと思う。

けれどもきっと大谷選手に近い人たちは、彼を天才という言葉では表現しないんじゃないか。
それは彼らの目には、大谷選手の偉業が実現可能なものと映っているから。

確かに僕も東大で色々な能力の高い人間を見てきました。
でも瓢箪から駒が出るような突拍子の無いものではなく、それに見合った才能と努力の結晶にあるもの。
才能を羨むこともありますが、そんな羨望を眩ませるほどの現実的な労力も背景にはあるものです。

この世に天才はいるのか。
きっといない。
もしいると思うのであれば、それは自分とは分野が異なりすぎているだけのこと。

そういうもんなんだろうなと思います。


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