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宗教の希薄化

資本主義は人々の宗教意識を薄めた。
これは日本だけじゃなく全世界で起こってることだ。
この間オーストリア出身のドイツ人と話していて、アメリカの影響をヨーロッパ諸国も例外なく受けているという話になった。
若い人は英語に憧れ、洋楽を聞き、英語に侵食されているという。
日本でも憧れ、やれアジェンダだ、やれコンセンサスだと横文字を使いたがる。

オーストリアだけでなくヨーロッパ諸国でも宗教意識が薄れているそうだ。
幼い頃は洗礼だとかミサに参加はするものの、成人してからはパタリとそういった儀礼に参加しないそうだ。

昔は宗教が国を区別していた。
まあ地図がなかったからというのもあったが、国境の代わりに宗教の違いが国同士を色濃く分けていた。
ローマ帝国がイエスキリストを弾圧しようとしたのも、信仰がそのまま国境を意味するからだ。
プロテスタント勢力が強まり、カトリックがイエスズ会を作り、諸外国に布教活動をしたのも思想による侵略をするためだ。
そもそも日本に外国からもたらされた最初のものは仏教という宗教だ。
全て宗教が国を実質支配できるからなんだ。

ただ、今や地図や人工衛星によって全世界の解像度が非常に高い。
どこからどこまでをどの国が支配するのか。
「国境」という概念が非常に明確になった。
国境だけじゃない。
資本主義によって土地を「所有する」意識は強まり、「敷地」という境を有する土地の概念が生まれた。
この境というものは他とを区別する意識を非常に強めた。
つまり個人主義の普及だ。

個人という意識が肯定され、国も自国という意識が強まった。
他国との区別は宗教などではなく、国境へと変化した。
つまり何を信じているかはどうでも良いのである。
自分が自分である。
自国が自国である。
この「境」が最重要であり、その中身の信条や信仰に対する重要性は低下しつつある。

この低下に危機感を覚える人は多いように思う。
ハードである境界に目がいき、ソフトな国としての特色が希薄化する。
日本だけでなくヨーロッパもアフリカ諸国も全世界が均一化されていく。
だからこそ僕は宗教にもう一度立ちかえるべきと考える。
宗教と文化は切っても切り離せないものだ。
逆に宗教は文化を醸成する場でもある。
宗教を蔑ろにすることは国の文化を蔑ろにすることなんだ。
だから僕は日本の宗教建築を守りたい。

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