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「定義づける」文化

初投稿ではあるけど最初から自分の考えについてつらつらと書いてみようと思う。

昨今何かと話題な“LGBTQ”について。
元来、レズビアン・ゲイを中心とする同性婚を認めようとする動きに起因していたが、今やトランスジェンダーやクィアなども加わり、同性婚の範囲ではなく、“性自認”というかなり抽象的なトピックへと変わってきている。
多様性の謳われる現代、様々な性別を認めようという動きがあるが、私はこれに対して反対である。
これについては今回の本筋とは少しズレるのでまた今度書こうと思う。

そもそも“性自認”とはなんなのか。
色々な区分があるが、
①生まれた際の身体的性別
②現在の身体的性別
③自認する性別
④表現する性別
⑤好きになる性別
の主に5つの区分によって決まり、これらのいずれにも属さないものがクィアである。
それぞれの区分で男女の2通りがあり、一口にゲイと言っても、ニューハーフやゲイのオカマなど様々である。
実際、タイでは少なくとも32(=2の5乗)の性別があると言われていて、ジェンダーレストイレも街で見られるようで、性自認の多様性という意味では先進国と言える。

ここからが本題なのであるが、この「区分する」、「定義づける」文化というものはひどく西洋的で日本に不要なのものであると私は思う。
5つの区分から性別を捉える、というのは科学的思考、ここでは生物学的分類と同じなのである。
ゆくゆくは哺乳類サル目ヒト科ニューハーフ種とでも言いたいのか。
それはさておき、この5つの区分がなくとも、そもそも日本には「ニューハーフ」「オカマ」「女装子」「ハードゲイ」などヒトの性別を表す言葉を持っていた。
オカマ枠と呼ばれるようにメディアに多数出演するタレントは多いし、特別冷遇されている性別があるとは思えない。(西洋的の言葉を借りると“ストレート”である自分からは見えてないだけなのかもしれないが。)

そもそも日本には男色文化があり、織田信長は家臣と契りを交わし(=性交渉をし)、最強の軍隊を作り上げ、独占欲に狂った明智が謀反を起こしたという一説もある。
江戸時代、「親友」とは性行為に至れるほど親しい間柄という意味合いもあったとされ、男色とは一般的であったのではないかと個人的に思う。

したがって何が言いたいのかというと、もともと日本には性的マイノリティを受け入れる文化があったため、今から表立って受け入れようとする必要はないのではないか。
同性婚を認める、ことに関しては賛成派ではあるが、性自認を認める法案等を作らずとも良いのではないか。
現代、性自認を認めていないじゃないか、という反論があるのであれば、男色文化自体は江戸時代にはあったため、これまた明治以降の西洋文化によるものではないか。
わざわざ西洋に合わせて振り回されるくらいなら、日本の独自の文化に則って、思考し許容することが必要だと思う。

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