「子どもがかわいそう」という教員は要らない

教員の間では、校内の教育活動について様々な話し合いが行われている。

学年の教員とであれば、授業の進め方や宿題の出し方、各場面での生活指導の仕方やルールの設定など、学年でそろえる必要がある場合は、話し合いによって決めなければならない。

校務分掌においては、他学年や専科の教員も含めて、校務や担当行事の進め方、学校全体の指導に関するルールについて話し合うし、生活指導主任や教務主任など、他校の教員との話し合いが必要な役職もある。

教員は様々な話し合いの場で意見を交わし、対象となる問題を整理しより良い決定を下していく。

しかし、このような話し合いにおいて「子どもがかわいそう」という理由を掲げて論を主張する教育がいる。

「〇〇してあげないと、子どもがかわいそう」
「この子たちは〇〇がないとかわいそうだよね」

という具合にだ。

個人的には、この言葉を聞いたら何故そう思うのか必ず質問するが、大抵の場合は自分の過去の経験談からの推測であることが多い。
実際に子どもたちに確認した訳でもなく、ただの推測を根拠としているのだ。

しかしこの「子どもがかわいそう」という意見は頭ごなしには否定しず辛いという特性がある。
今まであったものがなくなる、今までしてあげていたことをしなくなる、という有が無に変わることにはネガティヴな側面が強調されて、同じようにネガティヴな「かわいそう」と結びつきやすいからだ。

だだ、はっきり言ってこの論法は自分のやり方や考え方を肯定するための都合の良い捉え方だ。「子どもがかわいそう」は、あたかも子どもの事を考えた発言のように思えるが、全くもってそうではないのだ。
そして、このような発言をする教員は無意識に子どもに対して恣意的になっていることが多いと感じる。

なぜなら、自分が「かわいそう」だと思ったことを信じて疑わないのだから、その他のことについても自分の感情を根拠に決めてしまうに違いないと思うからだ。

教員に限らず、人がどう感じるかを決めつめて行動することは極めて危険であるが、対象が子どもであると、どうしても恣意的になってしまう。
だからこそ教員はそうなってはいけない。

教員は常に子どもに直接聞いて確認し、推測で何かをする場合は、その意図を子どもたちに伝え、極力納得してもらわなければならない。

「子どもがかわいそう」などという理由で決定した行動は、独りよがりに他ならない。

常に子どもたちと確認し納得を得つつ、何事もすすめなければならないのだ。

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