幸せを呼ぶイチゴ色の髪

先日、四か月ぶりに美容室に行った。

期間、空けすぎた。緊急事態宣言もあったからなんだけど、冬は光熱費がかさんで美容室代の捻出が大変なんだよー…。

でも、美容室に行った後からものすごーく自己肯定感が上がっている。髪形ひとつでここまで自分に自信が持てるものか、と自分でも驚いている。

昨年の六月頃から、しばし続けていたブリーチの金髪をやめた。チェリーブラウンとかいう赤みの強い茶色に染めあげた私の髪は、それまでの尖った私をとても丸っこく仕上げた。

次の回になると、美容師さんから「もっと赤くできますよ!」と言われた。なんじゃそりゃ、でも「ああ、いいかもですね」と言ってその「もっと赤」にしてもらった。すると、以前ブリーチしていた部分に赤がうまいこと入り込み、私の髪色は、そこはかとなくイチゴを思わせる様な塩梅に色づいたのだ。

毛先を引っ張れば鎖骨にたどり着くくらいまで伸びた髪は、それまでの人生ではだいたいそこら辺でショートへと転じていた。noteでも何度か話してきたけれど、私は自傷の代わりに髪を切ってしまうところがあったのだ。

幼い頃は、母親がぎっちぎちに私の髪を結いあげていた。前髪は作らず、おでこをうんと出した形で、キリキリと痛むくらいにゴムできつく縛る。今みたいにちょっとルーズな感じがいいなんて風潮の無かった頃合いで、だから私は時に、ハードスプレーで固められてまで母に髪をセットされた。そういうのが嫌になったのか、私は中学生になると、自然とショートカットに髪形を変えてしまった。

高校に上がる頃には、縮毛矯正という施術が私の周囲に流行るようになった。ストレートパーマのもうちょい強力版とでも説明すればいいだろうか。安い店だとだいたい一万円くらいで、髪をぐっとまっすぐに整えてくれる。私も何度も矯正をかけに行った。でもなんとなく、ロングになる前に髪を切ってしまう。

aikoがめちゃくちゃ流行っていた頃でもあって、母から「これにしなよ、これ持って行って切って貰えば大丈夫だよ」とナゾの薦めを受け、私はレンタル落ちで安く買ったaikoの「今度までには」のジャケットを持って、その髪型にしてもらうのを二、三度繰り返した。

でも本当は、ずっと「髪を伸ばしたい」と思っていた気がする。

女の子は、ロングにしておいた方が無難なのだと思う。あくまで無難か否かの話であって、もちろん「ロングでないといけない」と言いたい訳では無い。

なんというか、色の白いは七難隠すと同じで、とりあえずロングにしておけば三割うまい餃子の満州的な。…ニュアンス、伝わるだろうか。

高校を出てすぐしたバイト先で、同い年の同僚が、縮毛矯正をかけた直後でほんの少し長く見えた私の髪を見「こっちの方が似合ってる」と言ったのを、どうしても私は忘れられない。「あ、これが男の本音か」、そう思った。私のことをあくまで同僚兼友達として扱ってくれていたけれど、実際はそうやって女として値踏みしてたんだろテメー…私、ひねくれてるな。

でも、男性がロングの女の子を好きな率は、けっこう高いんじゃあないかと思う。

実際、夫もそうだ。今ですら「くくらないでアイロンでまっすぐにしておろしていて」と言われる…酔った時に。酔っている時に出た言葉って本音だって言うよね。奴は「まっすぐストレートロング」がどストライクなのだろう。

本当はずっと、だいぶ前から、私はそれを気配で察していたはずだ。なのにどうしても、私は伸びる前に髪を切り落とした。

手首を切るよりも手っ取り早く自分の一部を切り落としてしまえたし、厄落としにもなるんじゃないかと妙な期待も抱いていた。けれど、肩にもつかない、時には刈り上げてすらしまっている自分の髪に、私は心から満足していただろうか?否、違うと思う。

(でも、ツーブロックにしてるハンサムなお姉さんは見ていてすごく好き。)

これ、以前のバンドをやっていた頃の画像なのだけれど、

髪ロング雪

ちょっと加工しすぎちゃって見づらいのしか今手元に残っていなくって、だもんで大変申し訳ないのだが、これ、ウィッグで黒のソバージュ的なロングにしている。

私はこの時の自分の髪形が、ウィッグとはいえとても気に入っていた。

おそらく、これが私の理想の髪形なのだと思う。乳房を隠す程に長い髪で、毛先はゆるゆるとカールしていて。これに赤いダッフルコートを着て—というのを、高校時代にそこはかとなく夢見ていた記憶がある。いつからあるのかわからない、私の「女の子」像なのだろう。

なんとなくなのだけれど、私は「女の子」でありたかった反面、自分は「女の子」になっちゃいけないと思っていたのだなあと、改めて考えさせられる。

私は、お洋服の力を借りて自分が女であることを赦していきたい。人生のときどきに自分の性への躊躇いを感じて、中性的であることに(あくまで私の場合は)逃げようとしてきたけれど、私は、この体で生きている間はとりあえず女でありたいのだ―それが、私の本心なのだと思う。

…と、前に書いたこの記事でも綴った。

おおかたブスだブスだと嘲笑された学生時代の影響が大きすぎて「私は女らしくしちゃあいけない」とでも刷り込まれてしまったのだろう。もしくは、女同士の友情をロクに育めずに男に媚びてばかり生きている、そんな母親の姿に嫌悪感を持っていたからか。

けれど「本当は女の子でありたかった」ならば、私はそういう自分の願望こそを「切り落として」きたのだろう。

でもこれからは、自分を女性として「整えて」いってやりたい。

今通っているところの美容師さんは信頼がおける。変にお洒落ぶってたりもしないし、ジョジョとか好みの合うマンガ本がたくさんお店に置いてあるし、話すのが得意でない私にむちゃぶりもしてこない。40代入ったばっかしくらいの男性で、夫もこの美容師さんに担当してもらっている。

インテリアの少ない青と白が基調の小さな店内で、オフスプリングとかその辺の音楽がただただ流れているのに身を任せているのはとても心地いい。下北とかまで無理して行っていた頃より、ずいぶんと肩肘張らずに髪を切りに行けるようになった。

毛先に向かってイチゴの様に赤くなる自分の髪が、私はとても愛おしい。

その内色が抜けてしまうのもわかっているけれど、それはそれで使い込んだテディベアみたいな色、とでもしておこうか。正直、金髪にしていた頃より気に入っている。まとまらなくなってきた髪を結わって、後ろでひとつのおだんごに纏めてしまうのも大好きだ。横からわらわら髪が落ちてくるのも、そういうダルさが自分に合っている気がして嬉しくなる。

でもやっぱり、イチゴになってすぐの髪色は我ながらかわいいな、そう思う。

ところで、一重まぶたのままでいるのにもだいぶ抵抗がなくなった。

古着で買ったみかん色のモッズコートを着、もしくはこれも最近セカンドストリートで買ったSM2のアイボリーのカーディガンを着、ただの夕飯のお買い物に向かうその瞬間、私は今の自分がこれまでの自分の中で最高に「女の子」だ、と思ったりする。

やっとここまで伸びた髪の毛が、自転車を漕ぐことで風にあおられて揺れる。ただそれだけのことで、私は自分の髪の長さに幸せを感じる。

あの頃私を小馬鹿にしてきた人たちに、今の私を見せつけてやりたい—そんな気持ちもふつふつと沸く。そういう自分も赦してやりたい。それだけ自己肯定感も高まったということだ、素直に喜ぼうではないか。

さあ、目指せ髪ブラ。来年には叶うかな。それまでちゃんとケアしてあげよう。そしてまた、定期的にイチゴを色づかせるんだ。

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