見出し画像

嫌いな人に言われたことに囚われる必要はないよ

…という簡単なことを、長らく理解できていなかったと気が付いた。

たとえば、容姿を蔑まれた記憶があったとしても、逆に褒めてくれた人もいる。
そもそも、誰であったっておおかた「褒めてくれた人」に好感が向くことだろう。逆に、好きな人から「お前マジ不細工」とか言われたら、その人を嫌いになってしまったとておかしくはない。

ずっと、嫌いな人から言われた「気持ち悪い」とか「不細工」みたいな言葉を真に受けてきた。
でも結局、それを私に聞こえるように言ってニヤニヤしてきたのは「嫌いな人」でしかない。
それよりも、私に好意的な態度で「かわいいね」とか褒めてくれた人のことを、私はどうして信じられなかったのだろう。
嫌いな人からの評価を軸に生きる必要は、どこにあるのだろう。

そもそも世の中はルッキズムから脱却しようとしている。
聞こえるように容姿を罵ってくる人の方が、時代錯誤の考え方にあると判断される時代が、もうそろそろ本格的に訪れることだろう。

つい最近もこのコミックエッセイを読み、感銘を受けた。

美しい人が活躍している芸能界が見たい、という意見も一理あるだろう。
ただその「美しい人」の概念が、人それぞれ違うのだということも理解されていく時代が来ようとしている。
だから、この私だって美しいのよ—いやマジでこういうことでいいんだよね。
誰だって本当は美しいはずなのに、それを嫌いな人からの言葉で覆す必要は無いんだよね。

一時期ベリーダンスの動画をたくさん見ていて、その中のひとつに、日本人の先生でちょっとふくよかな方がいらっしゃった。
でもめっちゃくちゃセクシーだった。
お腹のぷよぷよ感は確実に、抱きしめた際のやわらかさを感じさせる。
その時に私は学んだのだ、スマートであることも素敵だけれど、ふくよかであることも素敵なのだと。

ルッキズム関連のことばかりに触れてしまったけれど、たとえばいわゆる毒親に「お前はバカだ」と言われて育ってきたとて、けしてバカじゃあないと思うし、もし万が一「自分でも自分はバカだって自覚があるんだよなあ…」という場合も、バカだからって何が悪い?くらいの気持ちで生きていていいと思う。
生きているだけで何かしらはどこかに貢献しているものだ。
買い物をすれば消費税も支払うんだし、ゴミを捨てればリサイクルに貢献していたりもするし。
その自治体に住んでいるだけで、そこの人口もプラスしてあげられているのだし。
存在しているだけで誰かの、何かの為になっているのだから、否定的な言葉に囚われなくたっていいだろう。

ちょっとタイトルからは話題が逸れてしまったけれど、後ろ向きな気持ちになってきた時は、そうして「言われて嬉しかったこと」を意識して過ごそうと思う。
ちょっと太ったなあ…でもまあ私、かわいいし!みたいな。
まだまだ人前でおおっぴらにそういう発言をすることが許容される世の中ではないけど、いずれはきっと変わってゆくだろうし。

若い世代の痩せすぎ問題というのも心配されているようだし、

ちょうど私くらいの世代から、いろんなことをいい方へ向かせてゆける流れが作れたらなと、本当にそう思う今日この頃だ。

頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。