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「ゆるす」

いっときは、母と縁を切っていた。戸籍すら抜いてやろうかと思っていた。

けれどもいろいろとあって「6年くらいに1回やっと帰省するかしないか」「月1くらいで電話する」「母の日や誕生日には何かを贈る」「お盆にはお菓子を送る」…みたいな関係に落ち着いた。

そういうことを他人に話すと、理解できないと言われることも多い。「たった一人のお母さんとそんな関係だなんて、親不孝者!」とか言われたりもする。だいぶ前だけれど千葉にあるパチンコ屋の社員の面接を受けた時なんて、そこの人に「北海道に帰ってお母さんと暮らせ」とすら言われた。うるせえ黙ってろ。

うちの母は、私のnoteを読んできてくださった方ならご存じの通りの「毒親」だ。これくらいの距離をもって暮らすことで、やっといい塩梅の関係でいられる。「毒親」という概念を理解していない世代もまだまだ世の中にはたくさんいるので、そういう人にとっては私は親不孝者なのだろう。知ったことか。

それでも私は、母のことをだいぶ赦せるようになった。

「赦す」という言葉には、ゆるめるとか、手放して自由にするとか、そういった意味もある。私は「罪や過失を、とがめだてしないことにする(三省堂 大辞林 第三版より)」という意味で母を赦したというより、母というひとりの女性の生き方について、自由にさせてあげようと思った、という意味で赦したに近い。私自身の考えをゆるめたのだ。

いつからだったろう。母は、別れたはずの元彼の車が近所に来ていたのを見たと言い始めた。きっとこっそり様子を窺いに来たのだと。まあ、そういうこともあるのかも知れないと、私もそれに納得していた。別に犯罪を犯す系のおじさんでも無かったし、寂しくなってこっそり来たのかもね、くらいに考えていた。

その内、母は「真夜中に電話を鳴らされる。これもきっとあの人の仕業だ。」と言い始めた。所謂ワン切りを家電でやられている、と言うのだ。さすがにそれはどうかな、と思っていたら案の定、母はややしばらくして精神科のお世話になるようになった。幻聴だったのだ。

寂しかったのだろうな、と思う。娘にすら出ていかれたのだ。けれども私とて、母と離れなければきっと、こじらせていた鬱病が寛解することも無かったろう(寛解だよ!って診断されたワケではないので、今も長らくの小康状態なだけかもだけど)。母は母で、私は私。いつまでも鬱屈したピーナッツ親子でいるワケにはいかない。

母はきっと、男性への依存心の強い人だった。今の時代よりももっと、女性が職を持って生きていくのが難しかった頃を生き抜いた人だ。そういうのも仕方なかったのだと思う。

お妾さんであったうちの母は、よそから見れば、娘である私を一人で育てた感を強く持たれていた。そんな母を「強い、立派な人だ」と持て囃してくれた女性たち(たとえば同級生のお母さんとか)も居たけれど、そういう人たちはどこかでうちの母を見下しているフシがあって、そしてゆくゆく宗教や政治団体に勧誘しようとか、そういった下心の見えていた人たちが多かった。実際に母は、宗教に誘われて逃げてきたことがあったそうな。

それでも母はきっと、自分が見下されているとかカモだと思われているなんてつゆ知らず、きっと「自分は強い女だ」と信じ込んできた。だからこそ、娘である私を力で屈服させようとするところがあった。叩かれたり、お酒をぶっ掛けられたり、そういった肉体的な力の暴力も勿論だけれど、精神をぎっちぎちに縛り付けようとする暴力はかなりのものだった。

とはいえ本人はナチュラルに「子育てしている」と思っているだけであって、私をゆるめの虐待という支配下に置いている認識はまったく無かったろう。それがまた厄介なんだよなあ。母を見棄てきれないのには、こういう点もあるのだ。

母との関係は、私の成育歴にかなりの影響を与えた。私にとって何より大きかったのは父の不在だったろうし、兄が死んでいたことも随分影響していたのは解っている。けれどもやっぱり、母とのことが私をぐずぐずさせている、間違いなく、今も、かなり。

それをどうにかしたいと思っている。私は私であって、母の娘である前に「私」なのだと、いい加減に自覚したい。

だから日々こうして、自分の気持ちを文章にしている。勝手に書きなぐって誰にも見えないところに置いておいてもいいのだけれど、せっかくだから誰かにも見て貰おう、と思ってしまう。認めて欲しいのだ、私のことを。承認欲求ってこういうことだよなあ。付き合わしてごめんなさい。

もう、あの母はああいう女性なのだ。私は母性を彼女に求めることを、ここいらですっぱりと諦めてしまった方がいいのかも知れない。彼女は私と血の繋がった人だ。けれども、血の繋がりだけが家族では無い。夫だって私の家族なんだもの、家族は血で縛るだけの存在じゃあ無いのだ。

前にもちょっと書いたけれど、私は時々女の人を好きになる。恋にほど近い感覚で、心をときめかしてしまう。

最初は小学生の頃、同じ放送委員の先輩。中学時代は同じ吹奏楽部のアルトサックスの先輩。高校の頃は一時期所属していた剣道部にいた、女優の小雪さんに少し似ている色白な美人の先輩にほんのりと。そして上に貼っておいた記事でも書いた、バレーボール選手だった吉原知子さん(かなりガチ恋めだった)。

ちなみに今は、プロ雀士の和久津晶さんに憧れる。さすがにもう私自身が既婚者だし恋に近い感覚には至らず、「こんな綺麗でかっこいいお姉さんになりたいなあ」といった塩梅で、和久津さんに憧れている。

そういう経験があるものの、私自身の本当の恋愛対象は男性でしかないという自覚がある。なんとなく察しはついているのだ。私は「年上のお姉さん」に甘えたいという気持ちをずっとくすぶらせている。それは恐らく、母に向けることのできなかった欲求を、年上のお姉さんに代わりに受け止めてもらいたいのだろう。「私が女の人を好きになったとて、それは結ばれたいとかで無くって、誰かを母親代わりにしたいだけだ」—そうやってブレーキを掛けてくれる自分がいる。(念の為にお伝えしますが、同性愛を否定するつもりはありません)

母は、随分と私を面倒くさい人間に仕立て上げてくれた。けれどもそれを愚痴ったってしょうがない。これからの人生、私は「私」として生きていけばいい、というだけだ。母が撒いた種が育って私に蔦を絡ませているならば、それをひとつひとつ剪定鋏で切り落としていけばいい。そして、今までうまく育たずにいた私自身の芽を、大きくしていけばいい、それだけだ。

精神的な母親が不在の人生はちょっと寂しい。けれども、その子宮で私を大きくし、この世に送り出してくれた。そんな、命がけのことをやってのけてくれただけで、充分「母親」してくれたんじゃあないかとも思う。それくらい、私はゆるく考えることにしよう。ゆるそう私は、私の母を。

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