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負けてなんか、やらないよ。

「書かねば」、そう思った。

だから私は夜な夜なパソコンの前へ向かった。昨年末に20回ほどの細かな分割払いを選んでまで買ったノートパソコンで、ひたすらに自分の中から溢れる言葉を紡いだ。

それが、今の私が未来の私にできる、最大のことだと思ったから。

だから私は書いた。自分の中にあるものを、すべて出し切るつもりで。

私の仕事の大半は、自転車に重たい荷物を積みつつ、お客さんのところへ行って集金をしてくる業務だ。

それはコロナ禍だからといって、とくだん件数が減るような仕事では無かった。それはありがたいことだ、私の収入ががくんと減るようなことも無かったのだから。

しかしながら、私の仕事にはひとつの恐怖が付きまとった。

「感染」だ。

毎月200人ほどのお客さんに直接会いに行くということは、それだけ感染のリスクが上がるということでもある。勿論、お客さんとて普段から気を付けて生活を送っている方ばかりだ。しかし、そもそもお金というもの自体が様々な人の手を介して渡ってくるものなので、どれだけ私のお客さんが注意をしてくださっていたとて、お金をやりとりしている段階で既にしてもうリスクは上がっている。お金を洗っている人もいる、とネットで目にした。その気持ちも、わからなくはない。

そして私自身も、感染の媒介になってしまう可能性がある。私のせいで、特に高齢のお客さんに何かあったら―そう思うのはとても恐ろしかった。

お客さんにお配りする品を前かごにも後ろかごにもぎっしりと積み、へとへとになりながら町中を自転車で走り回っていると、私の体は驚くほど体力を消耗させられた。もう、そんなに若くはない。ウーバーイーツみたいに大きなリュックをしょっていても走れる様な高校生とは、根本的なところで違ってしまっている。

そうやって疲弊した体にウイルスが入り込むことも怖かった。疲れることすら恐怖という生活は、間違いなく精神をも疲弊させてゆく。

そんな中「リモートワーク」という言葉が世の中に浸透してゆくのを、私は正直、羨ましく見つめていた。

在宅で、仕事をする―そのことに私は、ずっと憧れがあった。

具体的に言えば、学生時代から心の中にいつもあった「作家」の夢。家で文章を書いて、それを売ることで食べていく生活。もしくは今、夫と一緒にやっているバンドの音楽活動で生計を立てていくという夢。音楽も今はDTMというのがあって、つまりはDesk Top Music(デスクトップミュージック)、パソコンで音楽が作れる時代なのだ。

家で仕事をすることが、コロナ禍によって普及し始めていた。これまでは「何をやっているかわからない」的な感じで、特にご年配の方からはあまり理解されがたい立ち位置だった在宅での仕事が、これからの世の中では確実に「新しい生活様式」として定着してゆく存在になっていた。

私も、家で仕事がしたい。

その気持ちがますます強くなったのを、私は自覚していた。

だから私は、パソコンの前に向かった。

音楽活動に関しては、DTMの知識を私は殆ど持ち合わせていない。私に可能なのは、オーディオインターフェイスを使わずに済むソフトでもって、ほんの少しの作曲ができる程度だ。

なので必然的に、私が真っ先にできることと言えば、書くことであった。

すぐにそれを仕事にできるとは思っていない。それでも、やらなければ道は開かれない。

今の時代には幸いなことにnoteという媒体がある。noteに書いていれば、誰かしらが必ず見てくれる。よその会社なんかとのコラボ企画もある。そういうところから、もしかすると道が開けるかも知れない―そう思った。

とにかく、誰かに見つけて欲しかった。そして私に新たな道を、与えて欲しいと焦がれた。

そんな中、悔しい思いをしたのが秋の日のこと。

個人的に「これはもしかしたら、イケるのではないか?」、そう思っていたコンテストで、私は受賞を逃した。逃したというより、枠に入れなかった、が正しい表現だと思う。逃げられたんじゃあなく。そもそも私は、追いかけっこの輪の中に混じれていなかったのかも知れない。

偶然なのだけれど、その日たまたま用があって実家に電話したところ、母親に、お金をせびられた。三十万要ると言う。それは私の兄の遺骨を無縁仏にする為のもので、母も向こうの親戚一同も皆がこぞって、私の意志なぞまるっと無視をして、そうして決めていたことの為のお金だった。

母は、自らもまた自身の死後に無縁仏となるつもりだった。もう四十年近く前に亡くなった兄の遺骨を、私以外に守っていける人間がいないからだ。母は自身と息子を無縁仏にし、たった一人遺された家族の私が、嫁いだ埼玉から北海道の地元に帰省してまでお彼岸のお参りをせずとも済む様にするつもりだったらしかった。

しかし母は無知で、自分の死後にその保険金で息子を無縁仏にする、ということが不可能であることを最近知ったそうだ。私も正直、この辺の詳しいことはよくわからない。とにかく、兄を無縁仏にするには「今」お金が要るらしい。その金額が、三十万。母はそんなお金、持っていない。だから私に泣きついた。親戚たちも母にいろいろ口は出せど、お金を出すつもりはけして無いらしい。なら黙っていて欲しい、というのが正直な私の本音だった。

私には結婚して以来、うすぼんやりと思いながら生きてきた事柄がある。父とは訳あって同じお墓に入れなかった兄の遺骨を、私がどうにか引き取って、私の嫁ぎ先の埼玉で弔ってあげたいと―私はそう、うすぼんやりだけれど、ずっと思ってきた。毒親という呼び名の相応しい母はともかく、お兄ちゃんのことだけは、私が面倒をみたいと思ってきた。その為にも少しずつお金を貯めよう、そう思いながらも現実は厳しかった。我が家の家計はいつもぎりぎりで、仕事の合間にやっている音楽活動で、それを打開していけたらいいのに、という理想にすがって生きてきたところだったのだ。

「…どうして、どうしてそういうことを、今になって言うの?どうしてママは昔からずっと、私にお金の苦労ばかりさせるの?」

電話口で母に怒鳴りつけながら、私は涙を流した。悔しかった。あれだけ高校の偏差値にこだわっていた癖に、大学へ行く資金なんて少しも持ち合わせていなかった我が家。剣道部に入ろうとした時も、胴着を買う余裕も無いと言われたから私は、必死で知り合いに電話をしまくって、そうしてようやくお古の胴着を手に入れた。私と同い年の女の子のお古だった。同じ歳であっても、新品の胴着を手に入れられる子と、その子のお古をいただくしか無い私がいた。虚しくなかっただなんて、とてもじゃないけど言えない。

もううんざりして電話を切ろうとした時、母は言った。「…もうイヤだねえこんな世の中、生きていたくないよねえ」…、私は、激怒した。

自分の勝手で「こんな世の中」に私を生み落としておいて、何なんだその言い分は。ふざけるな―私は、猛烈に母を憎んだ。自分の息子の遺骨も守れず、自分の娘に大金をせびる母親なんて正直、要らなかったと本気で思った。悔しくて私は泣き続けた。私がこんなに必死で働いているのに、母は、そのつらさをなんとも思っていないのだ―それはきっと、真実だ。誇張じゃなく、私の決めつけでも無く、どうしようもない真実に違いない。

「こんな世の中」に生まれて生きて、今じゃあ海の向こうの国では、日本じゃ信じられないくらいに、未知のウイルスで人が亡くなっている―そんな現実を日々、目の当たりにさせられる。景気はどんどん悪くなり、有名店すら倒産する。誰もが知っている芸能人までもが感染し、命を落としてしまったという残酷なことすらも、「こんな世の中」で生きている以上は、けして目をそらせぬ現実だった。

泣きながら、思わされた。このままでいいわけが無い、と。

だから私は、やっぱり、書くことを続けたのだ。

少しばかり自信のあったコンテストで受賞できずとも、けして立ち止まってはいられないのだから。

これを書いている今日も、コロナウイルスに変異種が見つかった、と報じられたところだ。

もう、明日何が起きてもわからない時代だと思う。

だからこそ、やれることはひとつ残らずやっておきたい。だからこの企画にも参加させていただくことにした。私が選んだのは「やりたいことをやって生きる」、その為に「今」やれることをやる、ということだから。

「こんな世の中」—そう、こんな世の中だ。けれども「こんな世の中」だからこそ在宅で仕事をすることがここまで普通になって、だからこそ「自分もそうしたい、」と改めて強く思うことができて。

そして、立ち向かわざるをえない世の中だからこそ逆に、諦めてなんかいられない―そう、思うことができた。

私は、自分を笑わしてやりたい。他の誰でもない、自分自身を。

私の眉間には、もう美容形成外科で何かを射ち込まない限りは消えないであろう深い皺が刻まれている。おおかた、子どもの頃から眉間に皺を寄せるような環境にいたせいだと思っていて、この皺は私自身が必死で生きてきた証拠だとすら思うようにしている、そんな皺だ。

でも、もうそんな苦しい表情ばかり浮かべるのはまっぴらだ。

たとえ母が「母」として機能していない環境に生まれ落ちていても、世界が未知のウイルスに脅かされ続けていても、それでも私は、自分を笑顔にする努力をしたい。笑っていたい。やりたいことをやって満足して、すがすがしい笑顔を浮かべていたい。

だから、今できることをやってやりたい。誰でもない、私の為に。

「こんな世の中」がいつ終わるのかはわからない。もちろん不安だし、明日も私は自転車を漕いでお客さんの家へ向かう。

それでも私は笑いたいから、「こんな世の中」になんて絶対、負けてなんか、やらないよ。




#2020年わたしの選択

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