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2040年代になると、人間たちは所謂「老い」から解放されていた。 不老不死の技術までには行きついていないものの、とりあえずは「老い」をどうにかする技術を得、見た目には実年齢がわからない人間ばかりとなり、おかげで出生率などもそこそこの水準を維持できていた。 その肉体が治療法のない病気に蝕まれたり、あまりにも深い傷を負ったりすることで、どうしても死からは逃れられずに在る人間たちだった。それでも「老い」から解放された人間たちは、想像以上の安堵を得たものだ。 だが、一時は落ち着
街には活気が蘇っていた。 僕はあまり世情に詳しくなく、なんとなく飛行機での渡航がし易くなってきたのだとかその程度の理由しかわかっていなかったので、けれどもきっとそういった効果でまた、川越の街に活気が蘇ってきたのだろうと—伝染病の実態が今以上に知れなかった頃のあの沈黙の街の姿を思い出しては、帰ってきた賑やかさに少し安堵した。 「となみ」と名乗る彼女との待ち合わせ場所は、市内の静かな喫茶店だった。 有名店とかそういうのでは無い。商店街からも外れ、知る人ぞ知る面持ちのその古びた店
夢を見た。 それが夢であると、私はちゃんと気づいていた。 明晰夢ってやつなのだろうけれど、私はその夢を思い通りに操縦しようとは思わなかった。ただ、夢にどっぷりと浸かることを望んだ。 まるで夢を、現実のできごとのように味わいたかったのだ。 私は、車の助手席に座っていた。 長い道を、車は軽快に駆けているところだった。アメリカとかにありそうな広大な土地を、まっすぐに走る道路だった。 乾いた土地ではあったが、ところどころに濃い緑が植わっている。空はごく青く、道の伸びる先にまるでそこ
その小さな家は、庭にプレハブの小屋を持っていた。 庭だけは充分に広さのある家だったので、母が存命だった頃は「手入れがめんどくさい」とぼやいていたのを覚えている。そんな庭に、兄がプレハブの小屋を置いたのが、彼がもうすぐ高校生になる春の日のことだった。 「いつまでも妹と同じ部屋でいるのが嫌だ」という兄の意見に、そういった建物を扱う仕事をしていた父の知人が協力してくれたのだ、と聞いた。勉強机とシングルベッドを置いたら既にしてもう窮屈になるそこが、兄のねじろとなった。 そんな兄
もうすぐ西暦3000年を迎えようとする、ある小さな青い星がありました。 その星ではやっと、宇宙空間をある程度の距離、行き来する技術が実用化したところでした。 素材は比べ物にならぬほど強固であるものの、まるでいにしえの零式艦上戦闘機とも似通った姿をした一人乗りの宇宙船で、目標の星々に移動する技術を得たのです。 ユアは飛行大学校で優秀な成績を得た若者でした。十九歳になった年、件の宇宙船の飛行士に選出されたユアは、その行き先を政府によって「ばら星雲」に決定され、単身、宇宙船に
お母さんは、私を愛してくれないんでしょう? ・ 「そんなコに負けちゃダメよ、」 台所で料理の方を向いたまま、お母さんはそう、振り返りもしないで答えた。 クラスのAちゃんにいじめられているというのを、やっとの思いで告白した朝のことだった。どうしても学校には行きたくなかった。行きたくなさ過ぎて、毎朝の習慣みたいにお腹を壊して、家を出なくちゃいけないぎりぎりの時間までトイレにこもっている私のことを、お母さんはまったく労わろうとしてくれないのだ。 「高校なんてたかだか三年間
幼少期の僕が唯一褒められたのが、絵だった。 母親の知人とかいう人の開く絵画教室に、付き合いで通わされたのが始まりだった。「いやあ、カイくんには才能がある」、絵の先生はそう言って、僕の母をひどく喜ばせた。 それはけしてお世辞ではなかったらしく、案の定僕の絵は、学校でもよく受賞するものとなった。しまいには県とか国のコンテストであっても、なんやかんやの賞に紛れ込む始末。あっという間に僕は絵の天才児とされ—とはいえそれはあくまで僕を知る人の間でだけの称号で、僕は絵を描きながらも、
なおこさんは高校の先輩だった。 放課後の美術室で、いつもこっそりと煙草を吸っていた。きっと顧問の小太りな先生だってそれに気づいていたはずだけれど、先生はおおらかだったので、せいぜい誰にも見つからぬよう、いっそなおこさんの為に喫煙の場を提供していたくらいなのかも知れない。 代々の美術部員に使い古されてきたイーゼルに、案外雑に作ったキャンバスを乗せて、なおこさんは指先まで油絵の具に染まりながら、熱心に絵を描いていた。進学校ではあったけれど、なおこさんはいつだって落第しない程度
「やっとこれで、圭(けい)ちゃんも子どもをつくれる。」 田舎の母が、電話口でそう笑った。否、実際にはそこまで田舎というまででも無い、札幌のベッドタウンとかそんな感じで土地もよく売れて新築の家も建っている様な場所であるはずだった。 従兄の圭ちゃん—私の六個上のお兄さんが、このたび「新しい」お嫁さんを貰ったという報告だった。いくつかは知らないけれど、圭ちゃんよりも若くって、要するに古い世代が「結婚適齢期」とかそんな風に数えるくらいのそういう年頃のお嫁さんが、圭ちゃんのところへ
彼女とは、ひとつの塾の教室内に押し込められた、さほど性質の違わないただの同じ中学三年生であるのだと、そう—二人は「同じ」ものなのだと、私は長らくそう、ずっと信じて過ごしてきたのだ。 となりの中学に通っていたミハルは、「ポーチュラカ」というヴィジュアル系バンドを愛していた。それは偶然にも私も同じであって、そのことを何かのきっかけに知った私たちは、学校も違うのに、それはもうまごうこと無き親友関係であるとしか言いようのない仲となった。 「ポーチュラカ」は専門雑誌にやっと載るくら
「昔に好きだった人が、競馬をきっかけに馬を好きになったって言っていたのを思い出したの。」 そう言って彼女は嬉しそうに土曜とか日曜とかを待っていた。同僚になって三年目、職場で最も仲が良くなった彼女が、そうして急にネットで馬券を買う様になって一か月経つ。 「なんだそれ、どうしてまた昔の好きな人とやらがきっかけ?」「感傷ってやつかな、」「感傷、ねえ。」 私は不織布のマスクの下、彼女の顔がいかにうつくしいかを知っていた。白く透き通る肌にぽつぽつしているそばかすが愛らしく、この不
「あのコがね、あのコがね、先にあたしを叩いたの!」 そう言って泣きじゃくるその体を抱きしめると、きっとこれがゴム鞠みたいな弾力ってやつだ、と、健康的に跳ね返してくる質感があった。 大きくなったなあ、こんなにも私のからだの表面を覆ってしまえるほど、この娘は大きくなったのだ。あんなに小さくか細くって、偏食もして、もっといろいろ食べられるようになるのかな、ととても不安に思っていた頃が、まるで全部嘘の様だった。 「…あなたの気持ちはわかるよ、そりゃあイヤだよね、痛かったよね。
地下鉄はすべてを飲み込むように遠くまでその穴を走らせている。私は、それに飲み込まれることを望むように、生ぬるい風を帯びた車両に乗り込んだ。 元町という駅は、私には何があるのかわからない場所だった。ただ、あの人の住む街というだけが、私にとっての元町だった。 駅を出たところで、あの人が待っていてくれた。そこいらのホームセンターのどこでも買えそうな銀色の自転車を押して、あの人はなんだか気恥ずかしそうにほほ笑んでいた。 辺りはもう暗く、私はあの人と二人きりで過ごすのだという状況
あなたが私に「生きろ」と言ったことを、私は、恨みたくないの。 けれど私はもう疲れたの、あなたの言いつけを守って生きてゆくことに。 必死で家計を守って、自分でも働いて、子どもの世話をし家を整え、それでも私はけして誰かに感謝されたりしない。 まるで私という存在が当然のシステムであるかの様に、ただ毎日が過ぎてゆく。 子どもは可愛い。可愛いけれど、お願いだから私にも「私」であることを赦して頂戴、そんな風に感じてしまう。私はいつから「お母さん」という生き物でしかなくなったのだろ