【5冊目】 セロトニン / ミシェル・ウエルベック
雨の月曜日です。
周りの様子を伺っていると、今週から時差出勤やテレワークという方も多いようですね。少しく街の雰囲気も違うのかななんて考えております。が。どうでしょうね。違いますかね。しかし、まぁ、こんな日ですから。家に引きこもって仕事のついでに読書なんていうのが、最高のムーヴですね。
というわけで、月初のお決まりウィグタウン読書部です。
先月の課題図書は、ミシェル・ウエルベックの『セロトニン』。例によってここからは完全に【ネタバレ注意】となるので、先を読み進める方はその旨ご了承いただきたいんですがね。
こちらのストーリーを一言でまとめると「鬱の気がある40過ぎのおっさんが、今まで関係を持った女性や旧友との思い出に浸りながら孤独に死んでいく」物語じゃないかと思うんですよね。しかしこれでは元も子もないので、もう少し掘っていくとして、その前にまずちょっと違った話をしようと思う。
私は以前、廣木隆一監督『ヴァイブレータ』という映画にあるセリフに触れ、"優しさの本質" というものに言及したことがありましたね。作中に曰く「この人が優しいのは感情じゃなくて本能だよ。柔らかいものには優しく触る」と。それで私の頭には「優しさ=本能」という図式が生まれ、以後呑気に過ごすことになったのですが、それが覆されたのが司馬遼太郎さんの『21世紀に生きる君たちへ』という文章。曰く「「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである」と。つまり「やさしさ≠本能」であると。言い換えれば「やさしさ=技術」であると、そういったわけなんですね。私なんかはもうくらくらしてしまって。もうあかん。やさしさが本能ではないのなら、もう誰も私にやさしさなんかわけてはくれない。という感情になったわけなんですが、それをまさしく書いたのが、御田寺圭さんの『回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか』という文章です。意識を取り戻した容疑者が、医療スタッフに対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と発言したことを受けて書かれたコラム。この中で、御田寺さんは「人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない。有限のリソースである」と言い切っているんですね。そして「私たちは、自らが持つ有限の「やさしさ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている」とも。やさしさとはもはや「本能」でも、訓練して身につける「技術」でもなく、「有限な資源」であると言っているわけですね。御田寺さんはもっと有り体に「私たちは「やさしさ」を一種の紙幣のように扱っている」とさえ言っているわけですね。こいつはもう呑気には生きられない。本能であるからみんなに優しくしてもらえるはず、と思っていたら、それは違う。訓練で身につけなきゃいけないものだ、と言われ、挙句、やさしさというものは紙幣みたいなもんで、それを与えられない人間も確かにいる。なんて言われるんですから、もうあかん、みたいな気持ちになりますよね。嗚呼。私はもしかしたら、人からやさしさを頂けないような人間ではないだろうか。もしそうだったら、どのように生きればいいのだ。苦しい。とこうなるわけなんですが、御田寺さんはさらにこうも核心を突いてくるんですね。曰く「人は「やさしさの不在」ではなく「やさしさの偏在」によって深く傷つく」と。やさしさが無いのが悲しいのではなく、やさしさはあるのに自分の手元にない、という状況が人を追い詰めるのだと。その通りだろう。では、この「やさしさ」を、「愛」のような言葉に変えてみてはどうだろうか。作品を読んでいこう。以降本格的に【ネタバレ注意】となることを重ねてご留意いただきたい。
主人公のフロランは果たして愛を持っていなかっただろうか?彼には日本人の恋人がおり、過去にも幾人かの恋人がおり、さらには親友と呼べるような友人も1人、少なくとも1人はいる。物語はフロランの一人称語りで、彼らの恋人や友人との関わり合いが描かれる。
登場人物は、みなフロランとなんらかの愛を交わす。それぞれの間にそれぞれの愛の形があるわけなんですが、このフロランという人物の独白を読んでいくにつけ、なんだこいつは、こいつの愛は「女性器の形」でもしているんじゃないか、ってな気分になってくるんですね。これは、元カノたちの思い出の中に沈みこんでいる「女性器の形をした愛」の敗北の物語なんじゃないの?みたいな感じで読み進めていたんですがね。しかし、物語の主眼が女たちから、フロランの友人であるエムリックに移ると、これは愛の形の不調和を表しているのではないかと気付くのですね。
エムリックは由緒のある貴族の末裔で、有機農法の農業や酪農を生業にしている。とりわけ彼の愛の形は「広々とした農場でのんびりと過ごす牛の形」でもしていることだろう。しかし、それが崩壊し、エムリックは絶望の中、衝撃的な策に出る。このシーンの象徴的なのは、彼が彼の求めた愛に拒絶されたことに絶望して死を選んだということだ。そして、そのエムリックの愛の中に、フロランの姿は介在する余地がなかった。フロランがエムリックとの間に抱いていた「親友の形」をした愛は、エムリックの中にはなかったのだ。これと同じ構図は、フロランの日本人の恋人、ユズとの間でも起こるし、最後にフロランが本当に愛していたであろう女性カミーユとの間でも起こる。自身の愛が、相手のものと共有できない絶望というのがそこにある。例えば、エムリックのバンガローに宿泊していたドイツ人鳥類学者の歪んだ愛などは、まさにそれを一方的に伝えるエピソードではないか。老いた元カノであり、女優のクレールとの再会は、お互いが抱いた「愛の形」があまりに違うことを確認させるためのものだったのだろう。
物語の序盤、ユズへの愛が消滅したきっかけとして、フロランは「彼女はぼくの死を自分の人生設計に入れ、それが勘定の中に入っている」ことを述べている。「ユズのリアリズムは愛の不在の言い換えであり、愛の欠陥、その不在は決定的であり、ロマンティックで無条件の愛も一瞬にして冷めるというもの、そこからはお互いの都合による愛に入るのだが、その時点でもう終わりだ、ぼくたちの関係は終息しているとぼくには分かった」と言っているのだが、このシーンはフロランの自己詭弁であり、彼自身が「無条件の愛」を相手に差し出していたわけではなく、同時に「愛の不在」とはつまり「無条件の愛」の不在のことであり、人々はそれぞれの愛の形を合わせて生きなくてはいけないということなのではないか。その後で描かれるクレールとの再会や、ケイトとの別れ、エムリックとの事件や、ドイツ人鳥類学者の歪んだ愛、或いは冒頭のガソリンスタンドで出会った魅力的なブラウンヘアーへの一方的な愛なども、すべてそれぞれの愛の形を持っていて、それらがことごとくフロランのそれとは異なった形をしていた。作品のメインヒロインであるカミーユの現在をストーキングするフロランの姿は、まさしく彼女の愛の形と、自身の愛の形が異なっていることを確認する作業であり、彼女の子供さえいなくなってしまえばまた彼女の愛が自分に向くに違いないと、その子に銃口を向けるフロランの姿は、なんとかして彼女の愛の形を自分とマッチさせようとする行為である。結局その試みは失敗に終わり、彼はパリに戻る。パリで彼を迎えたのは、常連となったホテルのフロントの女性、オードレーである。しかし、その住まいも、簡単な理由で出て行かなくてはならなくなり、彼は去る。その際に彼は「その時ぼくは、「邪魔をして失礼しました」というこの表現が自分の人生を要約していることに気付いた」。彼の愛は、とりわけ誰にも必要とされず、誰の愛の形ともマッチせず、孤独のうちに自分だけの愛の形を育てていたことを、彼は痛切に知ってしまったのだろう。辛い。彼にも、それ以外の登場人物にも愛は確かにあり、しかし、それぞれの愛の領域に入れる人物はとても限られていて、そして、その愛が自分自身を受け入れてくれないと知った時、己の孤独に絶望するのだろう。愛がないのではなく、愛が周りには溢れているからこそ、そのミスマッチに苦しむのである。
フロランはラスト、自身の部屋の壁を今までに撮った写真で埋め尽くした。「二枚はカミーユとの、一枚はケイトとの。他にもまだ、三千枚ちょっとの、重要度はずっと劣る写真があった」。二千数枚のその他の写真は、彼の孤独の形をしていたのだろうか。あるいは彼のものではない、誰かの愛の形をしていたのだろうか。そこに入れない我々に、どのようなオプションが用意されているのだろうか。愛とは、孤独とは、個人とは、全体とは。2月という愛の季節にぴったりの選書でしたね。ただ、もうちょっと時間をかけて、改めて読み返してみたいですね。一度通読しただけでは、ちょっと荒すぎるなって気がしますね。もう少しまとまった感想を書けるようになりたいですね。すみません。
というわけで今月、3月の課題図書は森鴎外『かのやうに』です。短編ですからね。楽にできますかね。そんなことは絶対になさそうですけど。やっていきましょう。
(posted on Facebook on the beginning of March)
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