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【一口法話】戦争。人はなぜ殺し合うのか

先日NHKで、「戦争 なぜ殺し合うのか」というテーマで、特別番組が放送されていました。

ヒューマンエイジ 人間の時代 第2集 戦争 なぜ殺し合うのか - NHKスペシャル - NHK

多くのことを考えさせられる内容で、仏教にも照らし合わせて考えることのできるテーマでしたので、今回はその内容をご紹介しつつ、お話したいと思います。

▼動画でもご覧いただけます

この番組では、戦争の原因を探るため、戦争や紛争に関わる4万本の論文を解析されたとのことです。

その中で、戦争の要因の一つとして、「オキシトシン」が取り上げられていました。「オキシトシン」とは、脳内で分泌されるホルモンで、愛情ホルモンとも呼ばれ、出産や育児の時にも分泌すると言われています。

「オキシトシン」は、他者への愛情や協調性や信頼関係を生み出すとされています。しかし一方で、近年の研究では、その「オキシトシン」が、守るべき相手とそうではない相手とを線引きし、攻撃的にする作用があることが分かってきたようです。

私は、その領域の専門家ではありませんので、「オキシトシン」が本当に他者に対して攻撃的になる作用があるのかということは分かりません。しかし、その理屈は理解できます。

例えば、番組でも紹介されていましたが、我が子を出産したばかりの母親マウスとその子たちがいる空間に、一匹の知らないマウスを入れました。すると、母親マウスはとたんにその相手を攻撃し始めました。

そのように、我が子を抱えた親が他者に対して敏感になる気持ちや、必死で我が子を守ろうとする気持ちは理解できます。

私たちは、自分の大切な存在を守るために、美しい愛情や献身さを見せることがあります。一方で、その大切な存在を守るために、自分と他者との間に線引きをし、時には攻撃的になってしまうこともあります。

私たちは、物質レベルや本能レベルで、そうした性質を持っているということ。そして、愛情と攻撃性とは表裏一体であること。そのようなことを考えさせられます。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のつくられた和讃といううたに、このような言葉があります。

愛憎違順(あいぞういじゅん)することは 高峰岳山(こうぶがくざん)にことならず

(『正像末和讃』/親鸞聖人)

愛と憎しみとが互い違いになり隔たった様は、まるで高い峰や丘や山のようです。

私たちは、自分が親しく感じる人や好きな人には、愛情や好意の気持ちを抱きます。しかし、その思いが通らなかったり、裏切られた思いになると、愛情が反転し、怒りや憎しみにも変わります。しかも、愛情や好意が大きな程、反転した時の怒りや憎しみの感情は大きくなります。

そうした愛情や好意が反転し、怒りや憎しみの感情となっていく。その愛情と憎しみとの間の隔たりは、まるで高い峰や丘や山のようである。そのようなことを、親鸞聖人の和讃から思わされます。そして、今回の「オキシトシン」の話に引き寄せて考えると、このようなことが言えるでしょうか。

私たちは、自分が身近に感じる人や、好意を抱く人に対して、その人を自分の線の内側に置いて、守るべき対象として見ている。そして、その守るべき対象の人に対しては、愛情や協調性や信頼をもって接することができる。

しかし時に、相手を自分の線の向こう側に置いてしまい、その人に対して攻撃性を発揮してしまうこともある。愛情が翻り、怒りや憎しみとなって、相手を線の向こう側に追いやり、攻撃してしまうこともある。私たちは、そうした性質を持っているのかもしれません。

さらに番組では、「プロパガンダ」という政治的な宣伝や広告の恐ろしさにも触れられていました。

私たちは、守るべき相手とそうではない相手とを線引きし、守るべきものには愛情で接し、そうではない相手には攻撃的になりやすい性質を持っていることを見てきました。そして「プロパガンダ」は、その性質を増長させ、戦争を桁違いに拡大させてしまうはたらきを持っていると言います。

どういうことかというと、例えば、17世紀にヨーロッパで起きた三十年戦争では、800万人を超える死者を出しました。三十年戦争では、それ以前の戦争と桁違いに死者数が増加しています。

現代のような大量殺戮兵器がない時代にも関わらず、なぜそれほどの死者が出たのでしょうか。それを紐解くと、そこには政治的な宣伝広告である「プロパガンダ」が関わっていたようです。今の言葉で言えば、メディア戦略のようなものでしょうか。

三十年戦争では、このような宣伝広告が用いられたようです。自分たちのことを天使に護られた神聖な集団として描き、相手側を魔物として描いた絵を宣伝広告として、大量に印刷し、配布したそうです。この時代は、活版印刷技術が普及し、大量に印刷ができるようになった時代でした。

「相手は悪者だ。自分たちは正しい」というような宣伝広告は、相手に対しての恐怖心や敵対心を煽り、味方の結束力を高めます。味方に対しては、我が身を投げ出しても、悪者から仲間を救うような献身性を起こさせます。一方、相手に対しては、「悪者だから殺してもやむを得ない」「あいつらは人間ではない」というように、殺害することの心理的なハードルを下げます。

このように「プロパガンダ」が、私たちの持つ、守るべき相手とそうではない相手とを線引きし、守るべきものには愛情で接し、そうではない相手には攻撃的になるという性質を増長させます。それによって、自分たちの死者数も相手側の死者数も爆発的に増加し、戦争を桁違いに拡大させてしまうと言います。

ここまで、私たちを戦争にかりたて、戦争が拡大していく要因を、「オキシトシン」や「プロパガンダ」から見てきました。

私たちは守るべき相手とそうではない相手とを線引きし、大切な人を守ろうとする思いが攻撃性をも生み出してしまうこと。そしてまた、大切に思っていた人でも、あることがきっかけで線の向こう側へと追いやり、怒りや憎しみを抱いてしまうこと。私たちは、そういう性質を持っていることを、教訓として覚えておく必要がありそうです。

また、情報に触れる際には、その情報や世間の風潮に流されず、本当に正しい情報なのかと見極めることの重要性を感じます。

親鸞聖人は、この世の全てのことは嘘偽りであると言い切った方でした。それは、私たちには煩悩という自分本位の心があるからです。自分本位の私たちが出す情報には、自分にとって都合の良い情報が混じっています。こうした視点からは、情報を発信した人や組織も、自分たちにとって都合の良い情報を出しているのではないかという見方が養われます。

今回の内容を通してみると、「自分と他者を線引きしてしまう性質」が、戦争の要因として挙げられています。仏教では、自分と他者を線引きして見ることを分別(ふんべつ)と言います。一方で、自分と他者とを分け隔てない仏の視点を無分別と言います。そして、自分と他者とを分け隔てないところから生まれる思いやりを、慈悲と言います。

分別を超え、いかに仏の無分別と慈悲をいただいていくか。それが、戦争に対する仏教的なアプローチであろうかと思います。言い換えれば、自分と他者との線引きをいかに広げ、もしくは無くし、他者への共感性をいかに高めることができるかということでしょうか。

番組では、その具体例として、地球温暖化などの人類共通の課題で、互いに手を取り合い、協力し合うといった例が挙げられていました。しかし、怒りや恐怖を克服し、昨日までの敵と手を取り合うことは、並大抵のことではありません。

しかしそれでも、子どもや孫や、その後の世代の人たちが、笑ってくらせるような世界をつくるために、戦いをさけるためのあらゆる努力を、私たちはしていく必要があることも思わされました。

いかがだったでしょうか。

今回は、「人はなぜ殺し合うのか」というテーマで見てきました。このことを人類はずっと考えながら、未だに解決できていません。ですので、簡単に結論は出ませんし、言うは易し、行うは難しです。

とても難しいテーマでありますけれども、考えさせられることが多かったので、今日は共有させていただきました。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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