少欲知足、和顔愛語【仏教ひとくち法話】
こちらの記事は、2021年1月20日におこなわれたお寺の朝会、「ヘルシーテンプル@オンライン」での法話を文字起こししたものです。
▼この内容は動画でご覧いただけます
ヘルシーテンプル@オンライン。本日は、信行寺版ですね。
幸せを育む法話の時間ということで、ご参加の皆様と共に、人生や幸せについて考えさせていただきたいと思います。
さて今回は、前回の話を振り返りながら、さらに新たな言葉もご紹介しつつ、人としての生き方、あり方を考えてみたいと思います。
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前回のヘルシーテンプル(全国版)で、幸せには自ら掴んでいくタイプの幸せと、今に満足していくタイプの幸せとがあるというお話をさせていただきました。
自ら掴んでいくタイプの幸せとは、自分が欲しいものを手に入れるとか、自分がしたいことを一つずつかなえていくといったタイプのものですね。そういう、自ら掴んでいくことによって幸せを感じるということが、我々にはあるかと思います。
そして、今に満足していくタイプの幸せというのもあります。何かを新たに手に入れたというわけでもなく、何か状況が変化したということでなくとも、今あるものを受けとめていく。今あるものを受け止めて、満たされていく。そういった、今に満足していくというタイプの幸せですね。
我々は、仕事や学校などで、ノルマや人と比較されるような社会をずっと生きてます。現代を生きる我々は、何かを掴んでいくような生き方は半ば強制的にしていたり、してきたわけですね。
だからこそ、意識的に今に満足していこう、今を喜び、感謝していこうとする習慣を持つことが大切に思われます。成長や結果を求められる社会にいるからこそ、自分を認め、今に満足していくことも、バランスとして重要だと思います。
そこで今回は、新たな言葉を紹介しながら、もう少し味わいを深めてみたいと思います。
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さて、浄土真宗では、宗祖の親鸞聖人からずっと血脈というのが続いているんですね。京都にある西本願寺の現在のご住職であり、浄土真宗本願寺派のご門主(もんしゅ)である専如上人(せんにょしょうにん)という方がおられます。
専如上人が、数年前に本願寺の住職を継承、ご門主を継承されました。その継承をされる際のご法話の中で、「念仏者の生き方」というお言葉を述べられました。その内容の一部を、本日はご紹介させていただきます。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。
それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。
たとえ、それらが仏さまの真似事まねごとといわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。
『念仏者の生き方』より抜粋
専如ご門主は、このような言葉を述べられました。
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この言葉を味わってみますと、阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくとは、言い換えると仏様の願いを聞くということであり、仏法(ぶっぽう)、仏様の教えを聞かせていただくということです。
浄土真宗では、仏法を聞いていくことを、お聴聞(おちょうもん)と申し上げます。こうした法話を聞く、仏教に触れるということもそうですね。お聴聞を通して、仏様の生き方に触れていく、仏法に照らされていく中で、自分がいかに自分本意の生き方をしているかに気付かされていくということがあります。
自分本位とは、自分が良ければ良いとか、自分が正しい、人は間違っているというようなあり方です。こうした姿勢は、傲慢とか、無知という言葉で表現されます。謙虚の反対の言葉ですね。
自分の奥底まで見つめてみれば、そんなに美しい姿ではなかった。いつもいつも自分を中心において、自分にとって都合が良ければ嬉しい気持ちになり、自分にとって望んでいない状況になれば悩み苦しんでいる。
お聴聞を繰り返し、いつも自分中心に考える自分の姿が見えてくるにつれ、中々人の立場には立てない、人の気持ちになれないという人間としての限界も見えてきます。そうした時に、傲慢な自分のあり方に反省させられ、無知な自分に気付かされていくということがあるかと思います。
無明とは、明るくないということで、無知とも意味が近い言葉です。自分中心に考えるがあまり、物事がありのままに見えないことを言います。お聴聞を通して、仏法の光に照らされる中で、自分中心の自分の姿が見えてくる。
それと同時に、段々と身を慎み、言葉を選んで、自分中心のあり方を克服する、煩悩を克服しようとする生き方へとつくりかえられていく。それが具体的には、欲を少なくして足ることを知るという「少欲知足」というあり方であり、穏やかな顔と優しい言葉で他者に接する「和顔愛語」という生き方であると、専如門主はおっしゃってます。
お聴聞を重ねれば重ねるほど、自分本位の自分、仏様のような生き方はできない自分に気付かされていく。しかし同時に、仏様のような生き方を志す人間へと育てられていく。その具体的なあり方、生き方が例えば、「少欲知足」であり、「和顔愛語」である。
こういった意味の言葉かと思います。
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実るほど頭を垂れる稲穂かな。
稲穂が実るほど、その重みで頭が垂れてくる。人間も成熟していくほど、頭を垂れ、謙虚になっていく。お聴聞を重ねる中で、自らのあり方への反省や、謙虚さが生まれ、自然と「少欲知足」、「和顔愛語」の生き方になっていく。
冒頭、幸せには、自ら掴んでいくタイプの幸せと、今に満足していくタイプの幸せとがあるというお話をさせていただきました。そして、現代を生きる我々は、意識的に今を喜び、今に満足し、今に感謝していくことが、幸せに生きていく上で大切ではないだろうかと申し上げました。
今日ご紹介した専如ご門主のお言葉は、そうした人の生き方やあり方を、具体的にお示しくださったものではないかと思います。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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