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サザンイングランドを旅して(後編)

―ザ・ロープ40周年記念海外旅行の勝手気ままな記録―



8. サウサンプトン Southanpton


6月 21日、この日はプリマスからポーツマスまで足を延ばすから8時には出発だ。日吉さんと二人で6時半には朝食、日本にいたら夢の中だ。例によってリンゴ ジュース、フライドエッグ、ベーコン、果物、ヨーグルト、パンと「ややこしくする必要のない」食事。この宿はコーヒーと紅茶のサービスはなくて、ティー・ バッグでいれた紅茶にミルクたっぷりという体裁。それでもホテルの朝食はいい。

年寄りのいいところでみんな時間より早く集まる。7時55分にはバスが出発。退屈させないようにと牛堂さんはいろいろ苦心をする。アガサ・クリスティは遅くに結婚した考古学者の夫と晩年まで仲良く暮らしたという。そこでクリスティの女性への助言、

「女性は考古学者と結婚なさい。何故かというと歳を取るほど夫が興味を持ってくれるからです。」
これはなかなかのジョークでぼくは知らなかったがいかにもクリスティらしい。

英国では二軒長屋?が多い。つまり2家族が一軒に住むのだが一緒に住む家族は親族であることはまずないという。親兄弟はわがままを言いますからね、他人なら 契約で嫌なら出て行ってもらう、親族だとそうはいきませんから、というのが牛堂さんの説明だった。ロンドンの高級住宅地には集合住宅でも一軒数十億円とい う値段がつくらしい。それでもほんとの金持ちは都会の喧騒を嫌って郊外に住宅を構えてロンドンに通うという。その住宅なるものはバスからはもちろん窺い知 れないが、写真の右のように田舎のちょっと豊かな一軒家のような家が広大な敷地の中に建っているに違いない。贅沢な住宅は国を選ばず平屋建てと決まってい る。

イギリスではバスの運転手を保護する規則が厳しく何時間ごとに何分の休憩、また1日の走行時間も規定されていて厳密に守る。われわれの予定はそれによって 左右されることになるのだ。その休憩に立ち寄った場所で木製の面白い小物入れを見つけた。birchで作ってあると書いてある。変わった木を見るとつい手 が出るがこれは樺の木だった。

「バ スは止まりませんが、もうすぐソールスベリー大聖堂を見ることができます。カメラのご用意を」ということで皆バスの右舷側にカメラを向ける。あちこちに 大聖堂は存在するが、ここはその尖塔の高いことと、何といってもかの有名なマグナカルタ、つまり大憲章のコピーの1枚があることが決定的にここを優位にし ている。英語で正式にいうと「イングランドの自由の大憲章」というらしいが、1215年の制定でいろいろ事情はあったにしても、国王の権限を制限する憲章 がこの時代にできたことはいかにも英国だ。そのコピーのもう1枚は大英博物館にありまーす、というのが牛堂さんの説明だった。

11時30分にサウサンプトンに着いた。ぼくは1976年の9月にここを訪れている。39年も前のことだ。サウサンプトン・ポート・オーソリティと銘打っ た港湾局のお偉方はぼくたちを案内してくれながら、こっちを見てくださいお宅の国のダットサンですぞ、なんとその数の多いこと。一方、こっちにある輸出用 のジャギュアーは疎らにしかいないのです、と大げさに天を仰いだ。

多分に商売上のコメントだったとは思が、それでも日産の自動車は多かった。そうではあったが、ぼくはジャガーのことを英国人はやっぱりジャギュアーという んだ、とそっちの方が面白かった思いがある。 当然のことながら、そのサウサンプトンの面影は全くない。昔ぼくが見た場所がどこかまったく分からなかっ た。われわれが最初に見たのはメイフラワー記念塔で旧市街の防壁の外すぐのところに立っている。高い石造りで天辺にメイフラワーの模型だろう帆船が載ってい る。向かいにある港に入ると遥かにガントリークレーンの群れと大型商船の停泊しているのが見渡せ、ここが大きな商業港であることを思わせる。

昔からそうだが、ここからワイト島への連絡船が頻繁に出ているのだ。ぼくたちのいる港の近くにその連絡船の出入りが見られた。もし時間があったらワイト島 も見てみたい。欲張ればきりがないが、当初は計画に入っていなかったサウサンプトンをもう一度見ることができてなんとなく懐かしい。あの処女航海で海に沈 んだタイタニックももちろんだが、クイーン・エリザベスなどキュナード船籍の大型客船はこのサウサンプトンからみんな大西洋を渡ってニューヨークへ行っていたのだ。


バスはこの港の中に特に入れてもらって、「タイタニック・メモリアル・ストーン」を見ることができた。その立て看板には「1912年4月10日昼の12時 にタイタニックはホワイトスタードック(現在ここはオーシャンドックとして知られている)の43/4バースから出航した。」と書いてある。更に「この港は 危険な場所です。この記念碑を訪れるすべての人は黄色い線から出ないでください。保護者は子供をちゃんと見守り、監督しなければなりません。」という注意 書まである。どうやら監督を必要とする仲間もいたようだ。

 

9. ポーツマス Portsmouth (その1)


12 時にバスはここを出て45分後にポーツマスに入った。街中というよりちょっと外れという感じの家並みにあるグリーン・ポスツというレストランで昼食。ここ も予約済みのところでグリーンピース添えチキン、サラダ、フライドポテトと盛り沢山。デザートはアイスクリーム添えのケーキと、もちろんビタービール半パ イント。われながらよくも入ると思う。イギリスは喫煙には割と寛容で、室内はもちろんダメだが路上では自由に吸える。わが仲間の煙突族はその点でわが世の 春だ。

 

そして14時7分にはポーツマス軍港に到着。何といっても今回の目玉中の目玉、というところ。ところが、真っ先に安藤さんが声を上げた。
「あれー、マストが見えないよ、修理中じゃないかなぁ!」
もちろんお目当てヴィクトリーのことだ。門をくぐればどうしたってあの巨大な戦列艦が圧倒的な姿を見せるはずなのだ。建物の上にロープ群をまとったヤードが見えなければ、それを降ろしているとしか考えられない。案の定トップマストから上は見当たらなかった。

まあそれでも現役艦として存在している唯一の戦列艦だから、何はともあれその前で写真を撮ろうよ、というのがこれ(上の写真)だ。ヴィクトリーの見学は明日のお楽しみで、われわれはまずメアリー・ローズに向かう。


メアリー・ローズがどんな形をしていたか、作者は不明だが1545~1550年頃に描かれたという絵画が残っている。ドーバーでの乗船と題して「メア リー・ローズはおそらくこの絵の最前面にある船で、船尾と旗に王室の紋章をつけている。ヘンリー8世は彼の海軍における最大の船であり、金色の帆を持つ Henry a Dieuの甲板に立っている」とある。

やや誇張はされているのだろうが、メアリー・ローズの大型キャラックの特徴がよく出ている。ヘンリー8世は大変な人のようで、6人も女房を変えたこともさ りながら、「1509年に王位を継承した時、父親のヘンリー7世から5隻しか船を引継がなかったが、彼は大艦隊を作った」という意味の掲示があった。海軍力の増強に精力的に取り組んだようだ。

ついでにというわけでもないが、当時の大砲の展示もあって、特にその装飾が見事だ。前述のチャールスタウンではないがこのころから大砲鋳造には粘土が使われたはずだ。もっともブードリオの本では、装飾品はロストワックスと書いてあったからそこは粘土ではなかったろう。

1510年建造というから、メアリー・ローズはヘンリー8世が王位を継承した翌年に建造されている。そして1545年に沈没し、1982年に引揚げられる まで437年も経っていたのだから、残骸が残っているのが不思議なぐらいでよくもここまで保存できたと感心する。特に各デッキの構造や船底のマスト受けまで説明してある。

同じような引き上げ保存をしているスエーデンのヴァーサも見ているが、こちらの方は条件がよくて船体上部がかなり残っている。したがって船としての全容を 見せるための雰囲気と技術的な工夫がなされており、かの国のヴァーサに対する国民的な敬意と愛情をひしひしと感じたものだ。メアリー・ローズにはまことに 残念ながらこういった雰囲気はない。それだけ保存が難しいのかもしれないが、ヴィクトリーを始め保存艦や保存船がわんさとあってその中の1つという扱いに なってしまうのだろう。とはいっても、もちろんその保存の努力と執念に大いなる敬意を抱いたことは当然だ。

王立海軍博物館はもっぱらネルソン提督を称えるものとぼくには映った。人間臭くて偉大な海軍軍人だったネルソンを英国人がわがことのように思うのは理解で きるし、その展示も素晴らしい。しかし何となくパリはナポレオンでもち、ポーツマスはネルソンでもつと、ちょっと僻みっぽく言って見たくもなる。横須賀は トーゴ―ではもたないからでもある。ことの良し悪しは別として、フランスが陸軍国であり、イギリスが海軍国である1つの証左ではあるまいか。

 
 

門を入って右側の岸壁にはH.M.ウォーリアが係留されている。これがまた見事な船で立派なマストを備えたシップ型の帆船でありながら、近代戦艦の元祖であるという。小型で効率のよくなった蒸気機関、ライフル付き後装砲、装甲に使われた新素材、スクリュー推進などなどがそういわせているらしいが、目につくのはバウチェイサーの位置にある大砲だ。後込めのいかにも威力のありそうな大砲で、模様のように描かれたレールで実際にどの角度でも撃てそうに見える。操作は大変だろうがカノン砲やカロネード砲に比べたら天と地ほどの違いだ。

この船は1861年の就役。グレート・ブリテンの初航海が1845年だから、たかだか16年ほどでこれだけの進歩をしている。しかし、しかしこの新型艦も10年ほどでもう時代遅れになったという。19世紀という時代がいかに進歩の速い時代であったか、それもまあ、いってみれば主に軍事面で、ということか。20世紀から21世紀にかけてももちろん情報を含めて同じような目まぐるしい時代ではある。この幾何級数的な進歩?がどこまで続くのか、考えてみると恐ろしい。

まあそれはともかく、目についたのはかなり整頓されたボイラー室で、効率のいいボラーらしくポーハタンやサスケハナの時代から僅か十数年しか違わないのにこの有様、いやすごいなあと感じる。


 

ちょっとほっとしたのは小さな貯蔵庫のような部屋で、固形石鹸の木箱があり、その横には「ブレッド」と印刷された布袋だろうか、ここにはあの乾パンではなくイギリスパンが顔をのぞかせているではないか。士官用かも知れないがもしこれが兵員用だったらイギリス海軍も随分待遇が良くなったのだ。何しろ艦内でパンが焼けるということだから。

 

3時間ほどの見学を終えてホテルに着いたのが5時25分、夕食は牛堂さん、ベテランたちと福島さん、日吉さん、堤さんを含め8人で港の方へと出かけた。
「あった、あった、これだ!」
と田中さんが大きな声を上げる。オールド・サリーポートいわゆる「出撃門」があったのだ。乗組員にとっては天国と地獄の境になった門だからぜひ見ていらっしゃいと大森洋子さん(海洋小説の翻訳家)に言われていたらしい。

 

海岸に設けられた防壁というんだろうか厚い石垣に小さな門が開いている。そこに取り付けられた銘板を見ると「ジ・オールド・サリーポート:この場所から数 えきれないほどの海の英雄たちが祖国の戦いに参加するために乗船していった。」とある。意気盛んな海軍士官たちもさることながら、罪を犯して止むを得ず海 軍に志願した人たち、強制徴募によって水兵にされた民間の若者たちだってこの門をくぐったに違いない。もちろんこの銘板は公式なもので海軍のいわば裏側については何も語っていないが、大森さんはそのことも言っているのだろう。何事にも光と影がある。



銘板のこの記述のすぐ後に「1週間後にドマス・ダイでチャールス二世と結婚するためにキャサリン・オブ・ブラガンザが1662年5月14日にこの場所の近 くでわが国に上陸した。」と書いてある。キャサリンはポルトガル王ジョアン四世の王女カタリナのことで、詳しいことは分からないが数奇な運命を辿りしかも 大変艶福家だったチャールス二世との結婚は歴史上の大事件だったのかもしれない。このキャサリン妃については、最終日に見学に行ったハンプトンコート・パ レスで、彼女がそこに住みパレスの歴史に名を残していることがわかって何となく親しみを覚えた。


近くの砲台を回りその高みから湾内を見渡すと折からの夕陽を受けて小さなヨットが間切ってゆく。その昔は戦列艦もフリゲート艦もおびただしく係留されてい ただろうに、もうその姿はなくこの海はひと時の静寂に包まれて往時の軍港という感じはない。われわれは心行くまでその景色を堪能した。


やがて、ぐるりと回ってわれわれはザ・スパイスアイランド・インというパブで大いに飲み、適当に食べ午後8時まで歓談のひと時を過ごした。ポーツマスの第一夜はこうして更けていった。


10. ポーツマス Portsmouth (その2)


この日、ネルソンは10月21日のトラファルガー海戦と自らの戦死に向けて写真のような小さな出撃門をくぐり、この橋を手前に渡って海岸の迎えのボートに 乗ったのだろう。何ということのない遺跡がわれわれには大変感慨深い。それにしても木造のこの小さな橋をよくぞ保存していると感心する。金属製の手摺に置 換えてはいるもののこういう保存はネルソンファン、というよりも、海洋国そのものの性癖だと思うのはちょっと僻目だろうか。

 

6月 22日月曜日、久しぶりに雨が降った。イギリスといえば雨と連想するのに、幸いわれわれは晴天に恵まれていたのだ。まあたまには雨もいい。しかしかなり肌 寒いのに驚く。旅も後半で少しずつ疲れもたまる。今朝はちょっと遠慮してシリアルと果物、それにたっぷり牛乳を入れた紅茶の朝食にしておく。


この日の朝、牛堂さんはネルソンのサリー・ポートだろうか、特別な出撃路を見せてくれた。ホレーショ・ネルソン提督の銅像の立つ台座には1805年10月 5日と日にちが刻まれ、銘板にはトラファルガーの海戦に出撃する前、英国における最後の数時間をジョージ亭で過ごしたとあり、そのジョージ亭も1941年 1月10から11日のドイツによる空襲でポーツマスの多くの区域と共に破壊されたと記されている。


「ジョージ亭」というのはわれわれ海洋小説ファンにはなじみ深い。あまたの海軍士官や提督たちが出撃前に根城にしていたところだ。ただ銘板には 「GEORG HOTEL」とあって、それには違いないけれど、とちょっと違和感がある。これが小説の原文の用語なら、日本語として「亭」は翻訳の妙というべきだろう。

 

調理場の写真は当時のものかどうかはっきりはしないが人数の割には小さい。そこで調理したかどうか、「食卓仲間」といわれる大砲ごとのグループが食事を摂 る取付け式の食卓はこんな様子だ。

一方で大きな砥石は切込用の長剣、カットラスを研ぐという恐ろしい役目も持っている。これが回ったらまず確実に何人かが 命を落とす。この船でネルソンが銃弾に倒れた場所が後甲板にある。1805年10月21日(のトラファルガーの海戦で)ネルソンが倒れたのがここだと表示 してある。ヴィクトリーは軍艦なのだ。

 

12時20分、ここポーツマス港内を回るツアー船に乗り込む。この船はカタマランだから客室の中はかなり広い。軍港の中はどうなっているのか興味津々。折 から雨模様で時どきは濡れながら写真を撮ることになる。ぐるりと奥の方へ回るといる、いる、完全にステルス型の駆逐艦だろうか、巡洋艦ほどの大きさはない が近頃は7000トンなんという駆逐艦もあるから何とも言えない。前から見ると戦闘艦はなんといっても高い戦闘墻楼が目につくがステルス型で丸いレーダー ドームを乗せているのは昔の艦橋に慣れた目にはかなり異様な感じだ。

ぐるりと船が回って途中の停船場に入る。ここは「ガンワーフ・クゥエイズ・マリーナ」というちょっと変わった名のマリーナで、その入り口にはワイト島への フェリーだろうかワイトリンク(WIGHT LINK)と表示した船が行き交う。各地からワイト島に行く船が出ているようだ。マリーナの中には「ザ・シップス・チャレンジャー」という名前のかなり大きなセイリング・クルーザーが1号から4号まで4隻係留されている。ジブ用のステイに揚げた旗にはトールシップス・ユーストラストとあるから、若者を対象 に帆船で教育をする団体が持主なのだろうか。

こういうのを見ると本当にうらやましい。単にお題目で1隻の船を持つのでなくて4隻も持っている団体があるというのは、青少年を帆船で鍛えることがいわば 日常茶飯事、多くの青少年に帆船で海になじんでもらうことが当然だという海洋国としての確たる背景があるということではないか、と力んでみても始まらない が海洋国というのは単に船が多いということじゃないと思い知らされる。


それにつけて思い出されるのは、1940年5月のダンケルクでの戦いでドイツ軍に追い詰められたイギリス軍とフランス軍35万人の撤退だ。撤退船はもとよ り漁船、ヨット、モータークルーザー、艀に至るあらゆる民間船に撤退作戦を命令したチャーチルの「ダイナモ作戦」で大部分の将兵を救出した。NHKの「刑 事フォイル」という番組にこれを題材にしたものがあって、息子とともにダンケルクの救出に赴き、その息子が救出中に飛んできた弾に当たって死んでしまった と帰ってきた父親が悲痛な思いで語る場面があった。イギリス人にとってダンケルクは現実の問題だったのだと思いを新たにした。

これまで見てきたように至る所に船があり、日常船に慣れていて距離も近いという条件があったにしても、戦争に全くの素人が命を懸けて戦場に赴いたのは何よりも海洋国民としての矜持がそうさせたのか。英国人に海と船は近いのだ。


牛堂さんはこのマリーナで降りればバスまでむしろ近いからそうしましょうと皆を誘う。ぞろぞろとバスに乗ってビーフイーターというパブで遅い昼食。サラダにフィシュアンドチップスと変り映えのしない食事。相変わらずといいながら、新鮮なグリーンピースはやっぱり旨い。14時32分、空はすっかり晴れ渡りバスはロンドンに向かう。サザンイングランドの旅は一応これでおしまいだ。

もう一度インペリアル・ホテルにチェックインした後、有志6人でコベントガーデンに行こうよと夕方6時にホテルを出た。地図を片手にここだよなというけれども何だかそれらしいところに着かない。そのうち賑やかな大通りに出る。女性の騎馬警官までいて何となくロンドンらしい風情を添える。

コベントガーデンは若者の町で、とてもじゃないがじいさん連の入る余地はない。さすがの猛者連もどこで食事をしてよいやら思案の態。角を回ってちょっと人の少ない店でビールでも飲もうよと屋外の席に陣取る。アンドロニカスというこの店は聞いて見ると喫茶店だそうで、まあビールはあるけどね、という程度。アルコールとはあまり縁のない塩谷さんはご機嫌だが、みんな何となく煮え切らないような感じでビールのあとぶらぶらと街をホテルに戻る。

ロンドンの2階建てバスはいろんな種類があって最新式のバスはなかなかスマートにできている。このバスは車掌がいないから切符を買わなくても乗れるのだ。ただ乗りができるのでは、と牛堂さんに聞くと「神様が見ていますからね」というのが返事だった。このあたりが何とも解せないところでもある。

帰り道に田中さんが SPAGETTI ALL’ ARAGOSTAというイタ飯屋をみつけた。ビールとオリーブだけじゃさすがに腹が治まらない。ピザとワインでやっと夕飯にありつけたとみんな大いに盛り上がった。間口は狭いが思ったより大きな店で、傍らの長テーブルでは日本人の若いビジネスマンだろう、10人ほどでにぎやかに飲んでいた。結局ホテルに戻ったのは午後9時、まあ長い一日だった。

11.グリニッジ Greenwich (その1)


朝食を終えて朝の8時半、牛堂さんがやってきて今日はバスはなしです、という。そう、われわれが希望して地下鉄とリバー・バスという交通手段を使う。

ロンドン の地下鉄は久しぶりだが、ラッセルスクェア駅に入り込むと延々と続くエスカレーターの代わりに大型のエレベーターで一気に下まで降りる。なるほど効率はい い。

相変わらず地下鉄そのものはかなり狭いが車内の優先席には「身体の不自由な人、妊婦及び立つのが辛い人(less able to stand)」のための席だと表示があって、範囲の限定がちょっと日本と違う。なるほど、という気がしないでもない。

カティサークの名を冠した駅があるとは知らなかったが、9時45分に降り立つと立派な駅の看板が見える。グリニッジ大学というのもあるらしい。


外へ出ると もう目の前にカティサークが見える。ぼくは20年以上も前に黒檀を使ってこの船を作って5年間もさんざん苦労したが本物を見るのは初めて、幸か不幸か焼け る前は目にしていない。

こ の新しい博物館に入るとまず本船の底をくぐる。何本もの桁で船を支えその下を広々とした空間として見せる。

 

それでも手塩にかけた船だからその姿はなんとなく懐かしい。船尾の飾りを見てもあれには苦労したなという思いが強い。船を中に支え る構造だが外から見るとちょうど喫水線で区切られていて輝く海に浮かんでいるように見えるのは卓抜した演出だ。

入口に向かうとここでも子供たちが列をなしている。今日は火曜日だぜ、平日に博物館に来るということは授業の一環としか考えられない。美術館でもそうだが海事博物館に子供たちが嬉しそうに集まるのはやっぱり違うなぁとおもう。

この新しい博物館に入るとまず本船の底をくぐる。何本もの桁で船を支えその下を広々とした空間として見せるという発想はグレート・ブリテンにも一部あった が、ここではもっと押し進めてこの階を1つのギャラリーに仕立て上げている。

主役は銅板張りの(これがどう見ても真鍮板に見えるが)船体で、船首側には フィギュアヘッド群が展示され、その遥か反対側に喫茶室がある。両脇にはフィギュアの展示があり、ガラスを通して下から船体を見るという滅多に出会えない 視点もある。これが本物の船だからすごい。

船内に入るといろいろな展示の中で、ウール・クリッパーとして彼女が豪州航路をどうやって航海したかの展示もある。季節風が表示されていてシドニーからロンドンへの航路が分かるようになっている。表示には「貿易風が君の航海を後押しするよ。錨を揚げる用意が出来たら、舵輪の前にある出航ボタンを押したまえ」とあって、お父さんと一緒の男の子が真剣な顔をして航海に取組んでいる。将来の船長さんかもしれない。

 

彼女の時鐘、単にベルと表示してあるが、この由来に曰く

「本船がポルトガルの旗の下にあったとき(彼女はポルトガルに売られたことがある)、元カティーサークに勤務したことのある士官が1903年頃にこのベルを盗んだ。そこでポルトガルのクルーはすぐ近くにいた船でバーク型のシェイクスピアからベルを盗んできた。1922年にダウマン船長がカティサークを買い戻したとき、この犯人はシェイクスピアのベルと交換に元のベルを返すと申し出た」

だと。昔の軍隊の「員数合わせ」みたいだとちょっとおかしい。

 

甲板に出るとみんなあちこちと見て回ってから説明してくれた人と一緒に写真を撮る。ぼくも随分と参考になったが、甲板の前部両舷にある倉庫かと思った小屋がトイレだったと知ってなるほどと納得した。彼女はやっぱり軍艦ではなく商船なんだ。

 

12.グリニッジ Greenwich (その2)


この海事博物館でも子供たちの姿が多い。展示品も小さなお客さんが喜びそうな工夫をいろいろ凝らしてもいるようだ。日本の小学校で海事博物館に普通に行く という光景はまず見られない。そもそも海事博物館なるものが日本ではほとんど認知されていないと言っていい。つい愚痴の1つも言いたくなるのはぼくばかり ではないだろう。

 

12 時半、ここに付属した食堂で昼食。なかなか感じのいい部屋で、緑が周囲を覆っている。サラダとパスタで腹を満たし天文台へ行こうよと出かけた。天文台は ちょっとした丘にあって足がねぇという土屋さんと、もう見飽きたのか安藤さんたちは残る。牛堂さんの説明では天文台に入るには料金がかかるが、切符売り場 を何気ない顔で通り過ぎると裏庭に出て、そこに0度子午線が通っているから東西を跨ぐことができるという。

久しく山登りはしていないし、われながら大丈夫かと心配だったが、けっこうな坂を何とか登って天文台に取りつく。ここはかなりの観光客でにぎわっていて天文 台の中も大勢の人でいっぱい。イギリスの全盛期に決めた0度子午線というのが何といっても魅力だ。牛堂さんを先頭に、団体ではないよという顔をし、何気な い風を装って切符売り場を通り越す。心配したほどのことはなく裏庭にでると黒い扉の前に地味な色の石が並んでいる。これが0度子午線。この地球を東経と西 経に分ける分岐点だ。

緯度の測定は六分儀などで太陽との角度を測ればわかるが、経度の測定にはどうしても正確な時計が欠かせない。そのクロノメーターも結局は英国が開発している。当時の英国の実力はそんなことからもうかがい知ることができる。

俗なことは分かっているが皆にならって東経と西経を股にかける。それぞれのカメラと操作する牛堂さんは忙しい。丘の上から見ると目の下に広大な芝生が広がって、向こうに海事博物館が見える。この芝生はロンドン五輪で馬場競技に使われたのだとか。

13 時50分、一度博物館に戻り別の展示を見たあと船着き場に向かう。帰りは船でテムズ川を上るのだ。ところが14時半の便はどういうわけかキャンセルさ れて15時の便しかないという。仕方ない対岸まで行きますかと牛堂さん。向こう岸といってももちろん泳いで渡るわけではない。地下道がある。何のために あったかというと対岸からの労働者通勤用だという。産業革命全盛期の名残かもしれないが、やることはきっちりしていて立派なトンネルが今も残っている。しばらく向こう岸からこちらの景色を眺めるというおまけがついた。

午後3時丁度にシティ・クルーズと称する川船は出港。屋根のない2階の席にみんな陣取る。まあいってみれば隅田川のポンポン船と同じだが辺りの景色はもちろんロンドンで、それなりに見応えがある。タワーブリッジの少し手前で、牛堂さんの言うには「左舷側にちらりとレプリカですけどゴールデンハインドが見えます。瞬間的だからよく見てくださーい」。みんな左舷側にカメラを向けるがなるほどちらりとその姿を見ることができた。何故だかわからないがこんなビルの谷間にガレオン船を置いているのがいい。

テムズ川は昔から水運の幹線だから今でもコンテナを積んだ艀が曳かれて行くしタワーブリッジも観光客の関心を集める。たまたま小型帆船を通すために橋が揚がって撮影の焦点となった。勝鬨橋だってこれぐらいのことをしてもいいんじゃないだろうか。

このタワーブリッジの片側が有名なロンドン塔で、その対岸にベルファストがいる。この船は第二次世界大戦で活躍した一等巡洋艦だが、確か朝鮮戦争にも参加し ているはずだ。ぼくは1976年に1人で雨の中を見に行ったことがある。入ろうとしたら入口のおじいさんに申し訳ないが入場券を買ってくれと言われて恥ず かしかった。当時1ポンド、日本円にしてたぶん1000円だった記憶がある。

午後4時10分に下船。ピカデリーサーカスまでバスに乗る。これが最新式の2階建てで、切符を買わなくても乗れるが「神様が見ていますからね」と牛堂さんがいったのはこの時の話しだ。もちろんわれわれは1日乗車券を持っている。


ホテルへ帰り着くと相変わらず日吉さんがパブで食事、いやビールを飲もうと誘う。裏手にあるパブに行って早速にワンパイントのビールを注文。幸いテーブルが空いていて窓際の3人掛けの席にゆっくり座ることができた。日吉さんが席を外したとき、ひょっと奥を見ると
「日本の方ですよね。」
と声をかける人がいる。目のぱっちりした40代と思われる若い女性だ。1人でロンドンを歩いているという。われわれと棟続きのホテルに泊まっていて、ビールを飲みに出てきたらしい。

「話が遠いからこっちにいらっしゃいませんか」
と誘うと早速に移ってきた。何でもガーデニングがご趣味だそうで、ミキツーリストの専門家に聞いて歩き回っているらしい。われわれもミキツーリストですよ と思わぬ話になったとき、日吉さんが戻ってきて目をぱちくりさせている。いや実はね、と説明して何はともあれ1パイントご馳走しなきゃ、と立ち上がると ハーフパイントにしてほしいという注文だった。

それから3人四方山話になったが、われわれは船キチの集まりでねと披露したり、イギリスのガーデニングはという話になったり。なんでもテニスが大好きなご 主人が定年になったら2人でウィンブルドンのセンターコートで試合を見るのが夢なんだとか。日本の女性も随分と変わった。湘南地域に住んでいるというその 人の名前も聞かなかったが、旅の途中のちょっと面白い経験だった。

12.チャタム Chatham (その1)


 ロ ンドンの街中を流れるテムズ川が西に流れ、河口に達して海に入るその南にメドウェイ川があり、その河口付近が有名なノア泊地だ。この川の下流にロチェス ターという街があり、その少し先にチャタムがある。ノア泊地付近は英国海軍のいわば鎮守府だったところで、ポーツマスのスピットヘット泊地ととともに 1797年に大規模な水兵の反乱があったことでも有名になっている。ジュリアン・ストックウィンの「トマス・キッド」にその反乱が出てくるし、またアダ ム・ハーディのフォックスシリーズで活躍するジョージ・アクロンビー・フォックスはこのテムズ河口の湿地帯で育った少年で、付近にはチャタム造船所に通う 工員たちも住んでいたらしい。また大森洋子さんの話ではこのチャタムの近くに廃船を集めてその中で人々が住んでいた村があったとか。いろいろな歴史を秘め た地域らしい。


 


 


 

チャタムは当時の大きな造船所で、ヴィクトリーもここで建造されている。重要な造船所であるチャタムを守るのも英国海軍ノア管区(Nore Command)の重要な役目の一つだったという。当時の艦隊に対してマストやヤード、大砲、弾丸や火薬、そしてロープ類を供給する一大拠点だったから当 然ともいえるが、現在のチャタムは往時をしのぶ史跡というか博物館となって多くの見学者が訪れている。

その泊地までは行けないが、われわれはバスでその造船所跡を目指す。見学者用の駐車場は造船所の海側にあって、入り口には「チャタム造船所史跡(The Historic Dockyard Chatham)」と書いてある。広大な敷地にあちこちと建物が見えるが、まずは正門を紹介しよう。城壁のような茶色のレンガ造りで左右に塔があってその 中央に大きな紋章がある。右の塔の下に楕円形の銘板があって「1811年に建設されたジョージⅢ世の紋章。連合軍の欧州侵攻の作戦本部を支援する役割を果 たしたチャタム造船所を記念するため1994年に修復された。この飾板は1994年6月6日、Dデイの50周年記念の際に顧問官でありメドウェイのロチェ スター市長であるミセス・アン・マシューによって除幕された。」と記載されている。

 

こんな遠くの造船所跡地にも子供たちの見学が見られ、ほとんど幼稚園児と言っていいほどの子供たちまでが喜々として船や造船所を見に来ている。われわれ がどこを見学しても子供たちがいるから、やはり日常の活動なのだろう。構内にはいろいろな建物があるが、中にアッパーマスト・ハウスと書かれた建物があっ て、昔マストを作っていたのだろうか。そこを過ぎてゆくとドックに駆逐艦H.M.S.キャバリアーが係留されている。このドックがヴィクトリーを建造した ドックだ。


銘 板によると「ここがH.M.S.ヴィクトリー用のドックで、この艦は1759年8月23日に起工され、1765年5月7日に進水した。彼女は1800年 から1803年にかけてほとんど完全に改装され、1803年7月30日、ネルソン卿が彼の旗を翻した…」とあってそのあとにネルソンのことを述べている。 イギリスの軍港ではどこへ行ってもネルソン、ネルソンで、その気持ちもわかるけれどもその他の提督や将兵たちがちょっと気の毒のような気がする。ナポレオ ンの侵攻を防いだのは、また下ってヒトラーの野望を挫いたのも一提督だけではなく、名もない多くの勇敢な兵士たちの力でもあるからだ。


10時半、まずロープ工場へ向かう。敷地の奥にある恐ろしく長い建物で、その入り口を入るとロープの説明展示があって、原料はヘンプだという。ヘンプには 麻という意味と大麻という意味があるが、われわれの常識からすると麻だろうと思ったら隣に説明があって「帆船時代を通じて使用された主なファイバーは麻薬 の大麻草からのものであった」という。ふーん、と思うが当時大麻はあまり麻薬という概念がなく普通に栽培されていたのだろう。それでなければこれほど大量 のロープを生産できるわけがない。


ファイバーというのがいわゆる繊維で、これを紡いで出来た糸をヤーンという。これは緩い巻き綱で、これをおそらく100本以上もあろうかというほど束ね て撚ったものをストランドという。このストランドを3本撚りにしたのがホーサーで、当時の大型軍艦の主錨を支えたのがこれだ。さらにこれを3本撚りにした のがケーブルで、このクラスになると艦船の曳航用に使われる、という状態を簡単に展示してある。実際に船で使うロープ類はストランドにするときのヤーンの 数によってその太さを調整したのだろう。


一区 画が実演場になっている。ここにはファイバーからヤーンにするもの、さらにできたヤーンを何本か集めてストランドにする機械が連続している。みんな 神妙に座って待っているとやがて女工さんが多かった19世紀の工場の制服だろうか、黒く長いスカート姿の年配の女性が現れ、思ったよりも高い声で説明を始 めた。もちろん英語での説明だから、ほとんど解らないが専門語が入るので何の説明かがわかる。

や がて有志を募って実際にロープを作ってみようという。屋敷さんと石川さんがハンドルを握って回し始める。ロープに撚りを入れるのだが、その張りを保つため に若い英国人の青年が後ろからロープを引っ張っている。撚りがよしとなってその青年は3本のヤーンをまとめる木製の器具を持つ。それっという合図で更に器 具を回して1本のロープに仕上げる。



出来上がったロープはなかなかのもので、きちっと縒り合され案内の女性が40センチほどを立てて見せたがびくともしない直立で、みんな一斉に拍手。彼女はそのロープを3つ切り取り、屋敷さん、石川さんと英国人の青年にお土産にどうぞ、という。われわれはその恩恵に預かることはできなくて、いくばくかの お金を払って売っているロープの切れ端を手に入れた。

実際のロープ製造工場の跡も見てきたが、なんとも長い建物ではるかかなたまで続く屋根の下で何種類も のロープが作られたのだろう。写真を見ると多くの女性たちがここでロープ生産に携わった様がわかる。説明には
「1864年、熟練の紡績工たちが機械に代わり・・・」「・・・女性たちが作業した」
とある。腰に手を当て、胸を張ってこちらを見つめる女性たちは自信に満ち溢れているように見える。

 


海洋小説では軍艦乗組員からの視点が大部分で、造船所はケチの権化みたいに語られることが多いが、こうやって工場を見ると作る側の気持ちも分からないでも ない。せっかく苦心して作ったものを無駄使いしやがってと、実際の戦闘に参加するわけではないからついそうも思うのだろう。そのあたりはなかなか興味深い ところだ。

14. チャタム Chatham (その2) 



11 時半の案内予約ですからと、潜水艦オセロットを見に行く。その昔ぼくは海軍士官になって潜水艦に乗りたかったのだ。夢が叶わなくて今日があるのだが、それ ゆえに潜水艦には大変な興味がある。オセロットはここチャタムで1962年5月5日に進水し1991年まで英国海軍の現役艦だった。このドックで建造され た52番目の艦だという。O(オバロン)クラスの潜水艦は低速ではかなり静粛性があって6週間も潜水できた。そのために冷戦時代このクラスの艦はソ連沿岸 のスパイ作戦に従事したらしい。姉妹艦オニックスはフォークランド戦争に参加した、とこれらは銘板での解説だ。
艦内は狭い。前部魚雷発射管室から丸くて狭い隔壁をやっこらさと通り抜け、発令所に入ると潜望鏡がある。このあたりが一番広いところで、後ろの通路の両側 には本当に狭い寝棚が続く。艦長のキャビンと書いてある部屋は寝棚(さすがに1段だが)と小さい机でどうやって人が入るのかと思うほど。エンジンルームに 至っては人が通るのがやっとという有様だ。やっぱり戦争というのは大変だ。


 


 

午後1時から昼食だからと、潜水艦を見終わって時間があるので安藤さんや日吉さんと一緒に「ハーツ・オブ・オーク」という館に入る。ここは劇場様式で木造 軍艦建造を解説する建物で、言葉はわからないが見れば大変興味のあるところだ。ところがその時にわかに腹が痛くなってぼくは大慌てで各所を通り抜けて出口 にでた。幸いトイレが近かったのでやれやれ助かったと帰ってきたが、まあ出ちゃったしなぁ今更また中に入るのも、と躊躇していたら案内の女性が事情を察し てついていらっしゃいという。出口から逆に入ってみんなのところまで引っ張っていってくれた。ご親切にありがとうとお礼を言いながらこういうところがいい なあと感心する。


 

チャ タム造船所の総監邸だったところがレストランになっていてレンガ造りのしゃれた建物だ。ちょっとした前庭にバラが植えてあって景観を添えている。ここでお 茶も飲めるらしい。われわれは昼食で、ここのカボチャのスープは美味かった。もちろん1パイントのビールと3本のソーセージ、マッシュポテトに野菜があ り、デザートはアップルパイでそれがまたとんでもなくでかい。



 

午後3時の出発までまだ十分に時間があるので、各自自由に行動する。ぼくは日吉さんと一緒に「一号鍛冶工場」とでもいうんだろうかNo.1 Smitheryという建物で模型を見た後、H.M.S.ガネットに乗り込む。これは1878年の建造で帆装とスクリュー推進のかなり近代的な軍艦だ。ちょうど甲板の止め釘の修理中で木栓の使い方を見ることができた。帆の修理もしており、こういった記念艦の保存は大変だ。大砲を見てももう随分と近代化しているのがわかる。



甲板にあるキャビンに入るとなんだか賑やか。一人で歩いている青木さんが当時の服装をした女性2人とわあわあやっている。こういうことにかけて青木さんは達者なもので、意思疎通に言葉はいらないらしい。あんた方もどうぞ、というわけで日吉さんと2人なんとなくおこぼれに与ったような気分でそれぞれに写真を撮った。


午後3時5分、バスはここを出てロンドンに向かう。牛堂さんはいろいろな機会にバスの中でイギリスに関する知識を披露してくれる。産業革命でなぜイギリスが優位に立ったかの原因は「フランスのように官庁のがんじ搦めがなく、自由に仕事ができたので多くの才能が集まったからでーす」という。ぼくは英国史に詳しくないからそのあたりはよくわからないが、数学者藤原正彦さんの「遥かなるケンブリッジ」ではこう解説している。

「イギリス産業革命の一大特徴は、それが政府主導で行われたものでない、ということである…」とあって、長い解説だがそれを要約するともろもろの新しい産業に富裕な商人や地主が投資をすることで自由競争が行われた。ほかの国々の多かれ少なかれ政策的意図のもとに遂行されたものとは非常に異なる。「個人プレーの集積という点で産業革命こそは、イギリスの成した多くの偉業の中で、最もイギリスらしいものの一つといえよう」という。

18世紀から19世紀にかけてイギリスが圧倒的な発展を遂げてきたことは実際われわれがこれまで見てきたとおりだ。ただ「自由の中で個人が創造的に生きる」というイギリス人気質が、個人プレーではやって行けなくなった現代社会では通用しない。藤原さんはそれがいわゆるイギリス病の根源的な原因だという。1987年だから今から28年も前の藤原さんの経験だ。現在では当時よりももっと社会は変化している。大量データの処理などにも見られるように、世の中はますます個人技を発揮しにくくなっている筈だ。英国が実際にどういう状況にあるかぼくには分らないが、世界的に見ても大変難しいことだろう。


それとは別にぼくが不思議に思っていたのは圧倒的な海軍力を持ちながら、戦時にも軍人の国家指導者がイギリスにいなかったことだ。ぼくは軍隊に入った経験はない。しかし戦時の軍人主導の教練という科目を通じ、また学徒動員での海軍経理学校の予備訓練を通じて軍隊というものの片鱗を知っている。「兵士にものを考えさせない」というのが軍隊の基本的な性癖であることは間違いない。それでなければ命令一下全員が突撃するなんてことはできない。英国海軍も基本的にはそうだろう。しかし国家の運営に当たっては「自由の中で個人が創造的に生きる」というイギリス人気質が軍人宰相を生まなかったんだろうなあ・・なんぞとぼんやり考えているうちにバスはロンドンに到着した。


午後5時少し前、バスはサイエンス・ミューゼアムの近くに着いてここでみんな降りる。ここからは自由時間で牛堂さんはこの建物の前で仕事が終わり、の筈なの だがやっぱり心配らしく何くれとなく説明したり付いてきてくれたりする。それでも別れて博物館に入ると以前とはかなり様変わりしているようで、帆船模型な ぞは中二階にわずかに展示されているばかり。


昔の航空機の展示場などを見て回るが、あまり時間がないのと様変わりしているのでみんな何となく戸惑う。科学博物館と称しているのだからしょうがないよね、と言いながらも60門戦列艦の構造模型をしげしげと見る。

時 間ですよと追い出されるように博物館を後にすると、安藤さんがここからごく近いからぜひロイヤルアルバート公の像を見に行こうよという。この像はハイド パークの中にあってヴィクトリア女王の夫として比較的早くに亡くなった夫君を女王が記念して建てられたものという。その向かい側が有名なロイヤル・アル バート・ホールだ。さすがにアルバート公の像は豪華絢爛という感じでゴシック様式の建物の周囲には多くの彫刻像が配置されている。


 


 


 


 



なんだか疲れたね、もうホテルまでタクシーで帰ろうよとそこらにいるタクシーを拾う。「インペリアル・ホテル、ラッセルスクエアー!」と日吉さんは慣れた 発音で運転手にいう。カイロ駐在時代、彼は食糧調達で40回もロンドンに来たという。慣れているのも当然だ。それにしても今日も長い一日だったが、凝り性 もなく日吉さんと昨日のパブでビール。ちょっと混んでいて屋外の樽を机に1パイント開ける。ここは1730年からというグレートブリティッシュパブとい う。われわれも、いやぼくは随分と慣れたもんだ。


15.自由行動 ― ハンプトンコート・パレス


最終日、この日の団体行動はない。みんな自由に行動するのだ。とはいってもああそうですかと言って好きなところに行くという仲間は少ない。旅行前からど こにしようかとさんざん議論していたのだ。結局まあ好きにしようよ、ということになってぼくは田中さんたちに誘われたハンプトンコート・パレス行きに参加 することになった。

松原さんは名幹事で、この日のために安い時間限定1日乗車券(£12)を買っていてくれた。午前9時半から有効というのだが、時計を見ながら30分ちょ うどに切符を入れても入れない。係りのおじさんがもうちょっと待てという。31分になって入ることができた。1分をケチるなあとみんなで笑う。


地下鉄を一度乗り換えてウォータールー駅でシティラインに乗り換える。この駅はすごくてプラットフォームが17番線まである。上野駅もそれぐらいあるだ ろうがあそこは上がったり下がったりで分かりにくい。ここは文字通りずらりと一面に並んでいるのだ。われわれは2番線のハンプトンコート行きに乗る。平日 の反対方向だからゆったりと空いていてほとんど専用車並み。

終点 で降りて少し歩くと川越しにパレスが見える。なかなかのものだ。実をいうとぼくは今度の旅行で多少なりとも予備知識を入れようとそれなりの準備はした。し かしハンプトンコートは突然の決定だから、まるで何もわかっていない。だからこれからの知識に関してはほとんどが現地で買った案内書の受け売りだ。それを 知ったような顔で書いておく。


 


なんといってもここは1338年以前のヨハネ騎士団の住居跡が地下に眠っているという土地だ。住居としてここが成立したのが1500年ごろだというから 600年近い歴史がある。切符売り場で£16払ったが、みんなは£14.5だという。何か種類が違うらしくこれを変えてよ、と田中さんの応援も得て交渉し たら£14.5の切符にしてくれた。この切符売り場が昔の兵舎だというのだ。

何しろ広いし建物が複雑だから日本語の音声ガイドを借りて聞きながら歩くのだが、地理不案内でここがどこかガイドと一致しない。ええ面倒とそのまま見て 歩くが、なんとも壮麗というか、往時の宮殿とはこういうものかと感心したり、なんだかちょっと馬鹿馬鹿しく思ったりだ。

それでもやっぱりキッチンに興味がわく。高い天井にとてつもない広さのキッチンでは肉の塊を炉の前で焼いている。焼いている人が肉と同じように丸々してい るのがおかしい。チューダー時代の宮廷では一日に1200食以上を作ったというから大きなわけだ。ぼくは以前アメリカはニューポートの「マンション」を見 たことがある。その最大のものがブリーカー館といって城みたいに大きいがその広大なキッチンもここには及ばない。それはそうだろう国王と大金持ちでは格が 違う。


 


このほかチョコレート用の調理室だったり、ワインセラーだったり食べ物の施設はいろいろあるが、これだけの施設があって料理人も大勢いたろうに、宮廷発 のおいしいイギリス料理というものは聞いたことがない。フランス料理は宮廷料理が一般に及んでいるのだとよく聞かされるが、さすがのヘンリー八世も美食家 ではなかったようだし、イギリスの王室が美食に身をやつした話はとんと聞こえてこない。やっぱりイギリスでおいしいものを望むのは昔から無理だったよう だ。


 


 


このパレスという建物は歴代の王がそれぞれの部分を継ぎ足して作られているというちょっと変わった趣がある。その中で「アパートメント」という言葉が出 てくる。「ウィリアム三世のアパートメント」、「ヘンリー二世のアパートメント」という具合だ。アメリカの「マンション」が豪壮な邸宅であるように、ここ のアパートメントは王室の住居、と言っていい。贅を凝らした寝室や浴室などが並んでいるが天井が高いのは寒かっただろうなあ、と思わせるしせっかく掛けた 絵もよく見えなかろうにと心配したり、見る方もつい自分目線になる。「権威」というのは時として不自由なものだ。


ここはやっぱりイギリスで、部屋の中で演劇が行われている。場所を区切っているのではなくて見学の人々に交じって行われるのだ。部屋を見ていると突然大き な声がする。当時の服装をした人々が何やらを演じているのだ。そうかと思うと後ろの中二階からいきなり若い女優の声が「いいえ、そうじゃないの!」という 風に聞こえたりする。言葉がわかったら面白いのだろうが残念ながらそこまでは行かない。


 


ちょっ と面白いことが起こった。どの部屋だったか、松原さんが王様の椅子だろう、そこに腰かけたときに前にいた中学生ぐらいらしい男の子らが何人も松原さんの前 にひれ伏して拝んだのだ。やあ王様だぁ、王様だぁ、という感じで笑いながら何人も交代でひれ伏している。残念ながらカメラに残っていないのだが、松原さ ん、しばしの王様気分を味わったようだ。両手を延べて「オー・マイボーイズ!」とかなんとか言ったら満点だったろうに。それにしてもイギリスの子供たちも なかなかやるではないか。

ぼくが心にとめたのはここに住んだ王家の人々のコレクションだ。数々の名画が陳列され観賞することができるが、もちろんそこでカメラは使えない。しかしその入 り口にあたろうか「女王の階段」というキャロライン王妃が改装した壮麗な階段がある。絵画も掲げてあってこれらは目移りするばかりだ。こうしてみると富の 利点の一つは芸術の振興に貢献することにあるといっていい。国を問わず、時代を問わずスポンサーがいなければ立派な芸術は成り立たない。芸術にはムダの集 積のような一面があるから。


一 室には当時の貴族たちの服装を模した多くの模型があって男女を問わず宮廷生活も大変だなあと思わせる。これだけの服装を常時整えるにはバックアップする生 地屋やお針子をはじめ洗濯屋、保管係、クローゼットとどれだけの人数と場所を必要としたことか。もっともここに陳列してある模型の素材は係りの人に聞いて みたら紙だそうな。

見たいものは一杯あるが、歩くのももう限界に近い。庭に出てみようとみんなで庭園への出口から外へ出る。厳めしい正面の建物と違って裏側の庭園は大きな木 が整然と並んでいる。これはイチイとモチノキだそうで、昔はこの池を囲んでもっと低い木が整然と並んでいたらしい。不自然な刈込を嫌った庭師がいたらし く、現在の大きさになったという。それでもこの樹木の保守は大変だろう。ぼくは庭のサクランボの木だけでもふうふういうのにどれほどの労力が今も費やされ ていることか。


 


この日は陽射しが強くて外にいると汗ばむほどだ。それを察したか木陰には簡易な椅子が置いてある。ヘンリー八世の上に腰を降ろせという趣向だ。ガイドによるとヘンリー八世は若い時にかなりハンサムだったらしい。それが見る影もなく太って普通の肖像画では座布団のような顔をしている。それでも王様というのは恐ろしいもので6人も女房を変え、国の宗教まで自分の都合で変えてもだれも文句を言えない。

ぼくが学生のころだろうか、「ヘンリー八世」という映画があってそれが日本でほとんど初めてのカラー映画だったと記憶している。ここハンプトンコートは幾代もの帝王が住居としたが、どうしてもヘンリー八世の影は消えないのだろう。それほど彼は個性的だ。

11時から午後2時近くまで3時間ほども歩き回っていや疲れた、とみんなで遅い昼食。そんなに食べられないからとオムレツステーキ、レバーステーキ、チップス、オレンジジュースを頼んで6人で食べる。ちょっと情けないが、もうみんなかなり疲労がたまっているのだ。一人頭£4.5はだから安かった。

 


14時24分に列車が発車し、たちまちみんなは夢の中。何気なく目を覚ますとちょうどウインブルドン駅に列車が止まっている。ふと前を見ると目の前に建物があってその壁に「センターコート」と書いてある。センターコートはこんな近くにあるか、とびっくり。パブの彼女が夢だといっていたのがここかと思いながらまた眠ってしまった。
 
これで話は終わるのだが、ぼくには続きがある。せっかくロンドンへ来たのだ、有名な紅茶をお土産にと思ってよろず相談所の松原さんに聞いてみた。
「それは福田さんフォートナム&メイスンですよ、私はもう手に入れて…」
いるからと、いつ買ったのか紅茶の大缶を見せてくれた。それそれ、というわけで調べてみると乗り換えのウォータールー駅からベイカールーラインで直接ピカデリーサーカスに行けることがわかった。フォートナム&メイスンはここにあるのだ。


ぼくは今度の旅でパスポートを使う旅行がちょうど30回目になる。前半は仕事が多いが全体の12回がまあ遊びの旅だ。仕事の時は多くが現地集合現地解散だから比較的一人旅には慣れている。しかし歳とともにお任せ旅行が増えて、今回もまず一人で考えたり歩いたりすることはなかった。これはいけない。せめて紅茶を買いに行くのは1人で行こうと思い立って、ウォータールー駅で一行と別れた。

なんとなく一人旅モードに切り替えてピカデリーサーカスで降りると、はたと気が付いた。その店がどこにあるか松原さんにちゃんと聞いておかなかったのだ。まあ有名な店だろうし聞けばわかるだろう、くらいに考えて改札口にいた駅員と思しきおじさんに聞く。
「プリーズ、テルミー、ザ、ウエイ、トゥ…」
とここでフォートナム&メイスンが出てこない。さっきまで覚えていたのに出てこないのだ。情けない。慌ててメモを見てもう一回尋ねる。
「イグジット、スリー」
というのが答えだった。3番出口ねえ、でもどこにも出口の表示が見当たらない。さあ困った。おりしも階段を下りてきた老夫妻に3番出口はどこでしょうと聞く。さあ、どこかねぇ、われわれも知らないが…と言いながら階段の標識を見ると下に小さく Exit3 と出ている。同時にそれを認めてあははと笑い合い、サンキュウ・ソウマッチと階段を上がる。

それからが大変で、有名と思った店を知っている人はこちらが思うほど多くはないらしく、あっちだよと言われたのが反対だったり、右側だよというのに実は左 側だったり、どうしようもなくてお巡りさんに聞くことにした。ちゃんと運動靴を履いていないことを確かめて(なんでそんなことが必要かは、この旅行をした 人ならよく分かるのだが)、改めて聞く。 ここを真っすぐ、ずーっと向こうの左側だよとアフリカ系のお巡りさんは身を乗り出して親切に教えてくれた。


いかにも老舗然としたこの店に威厳のある年配の女性がいて、どれが一番?と聞くと言下にこれだと教えてくれたのが「ロイヤルブレンド」と書かれ、松原さん が買っていたあの大缶だ。朝食のロイヤルミルクティーにはこれが最適です、とにっこりする。ぼくはここで日本円にして1万円近くを費やすことになった。


実はホテルに帰ってからすぐ近くにある大英博物館に行くつもりだったのだが、もう精も根も尽き果て、大英も博物館もどうでもよくなってベッドにどんとひっ くり返った。日吉さんも帰っていてヴィクトリーの大きなキットを買ったとご機嫌だ。できるのが楽しみだねぇと、ちょっと嫌味ながら圧力をかけておく。

中国城大酒楼というたいそうな名の中華レストランでお別れパーティ。サザンイングランドの旅も今日で本当にお終い、明日は飛行機に乗って成田に向かう。仲間に恵まれていい旅だった。


イギリスという国ー旅行の感想ー


長いあいだ仇敵だったフランスと相対して、イギリス海峡に面した軍港や漁港が並ぶ海岸がサザンイングランドだ。ホーンブロアもボライソーも、コンウォール地域を含めたこの海岸をわが庭のように航海し停泊したこところでもある。ここを巡り歩くのは船キチには垂涎ものといっていい。今回はそんな旅行だった。好き勝手にこの旅で感じたことを書くとすれば、何といってもこの国のそれも18世紀から19世紀を覗いてみたということになろうか。英国の底力を、だ。

ポーツマスの「ヴィクトリー」は産業革命が始まろうという時代の1765年に造られた。大陸ヨーロッパも含めて18世紀中葉、木造帆船技術がピークに達したの ころの実物はその船体構造といい、リギングの巧みさといい、ロープの太さといい、書物の上でなくこの目で見ることで初めて実感できる。

例えば鋼鉄製ケーブルのない時代に麻のケーブルがどれほどの太さがあったか、チャタムで実物を見てみな唖然としたのだ。ブリストルの「グレート・ブリテン」はもう産業革命が終った1843年ごろの産物だが、その機関室の、たぶん鍛造の復原品だろう、そのロッドの大きさや正確さなど技術の高さは一目見ればわかる。

日本では十二代将軍徳川家慶の時代、天保の改革で贅沢を取り締まるのに汲々としていたころに、もうこれが造られていたのだ。今のわれわれが客観的に見てもそう思うのだから、岩倉具視視察団が英国などの産業技術を目にした時の驚きは、実際に明治の黎明期を生きている者として恐怖に近いものがあったのは間違いない。明治人がなりふり構わず馬車馬のごとく祖国の発展に邁進したのはこの思いがそうさせたと思わざるを得ない。

一方で、英国は何百年と変わらぬ姿をわれわれに見せてくれた。石造りという特徴がそうさせるのだろうが、大都会のロンドンでは暖炉の石炭炊きを禁止されながら建物の屋根には昔ながらの煙突が群をなして厳然と残っている。道路の両側駐車を認めながら、いたるところにある芝生と樹木の広場は頑として壊そうとしない。新たな住民のために、郊外に新しいアパート群をあちこちに建てながら、旧市内の景観は馬車全盛期のままだ。この頑固さがいかにも英国といっていい。もっとも歴然たる階級社会で昔ながらの上流英国人は、ゆうゆうと所属するクラブで一杯やっているんだろうな、ちょっとフッフという気分でもある。

サザンイングランドを移動すると、いたるところに緑の丘陵が広がる。囲い込み地というんだろう低い石垣に囲まれたきれいな牧草地が延々と続く。中に農業機械の踏み跡が深く残った溝があって、ああ小麦畑かと気付く。牛や大型の豚をときどき見かけるものの牛舎や農業ハウスなどはほとんど見当たらない。街中はともかく、一歩郊外に出れば工業生産はもとより農業生産設備は新設してもやがて大きな樹木に隠されて見えなくなるように要請を受けるらしい。昔ながらの小さな森と牧草地こそがサザンイングランド風景だと英国人は信じて疑わない。


英国庶民の象徴がパブであることを3回目の訪英で実感することになった。何せ昼、夜と連日1パイントを超すビールを空けるなんて家にいたら考えられない。日吉さんという同室者に恵まれてパブの外のビール樽をテーブルにして飲む。これが不思議に飲めるからおかしい。どこのパブの外でも、カメラを向けるとヤアヤアと陽気に手を振るおじさん連がいる。ビール樽の前でカメラを向けられたら、やっぱりぼくだってヤアヤアと手を振るに違いない。パブにはそんな雰囲気がある。


おわりに


旅には三つの楽しみがある。ワクワクと準備をする楽しみ、実際に旅をする楽しみ、そして、帰ってから反芻する楽しみだ。歳を取るにつれて比重はどうしても後半に移ってゆく。準備が面倒だったり、そのために実際に目にするものが本当に理解できなかったりする。今度の旅はその典型で、帰ってからいろいろ調べて納得したり、写真に撮った銘板で詳しいことを知ってそうだったのかと納得したりの連続だった。

本来旅は心の中の思い出としてそっと仕舞っておく方がいいのかもしれない。適当に薄くなりいい思いだけが残るからだ。しかし、ぼくには何とか記録に残しておきたいという悪い癖がある。外国に出ると小さなメモ帳をいつも手にして、時刻と場所と固有名詞を記録する。そうでないとすぐに忘れる。もう一つは食べたものと、値段。これが案外旅の重要な部分になる。感想はよほどのことがない限りメモしない。忘れるような感想はあまり意味がないから。

ザ・ロープの中山さんにホームページの旅行記用に楽しみにしていますからねとおだてられ、今回もたいそうな時間を費やして書くことにした。歳から考えておそらくこういった記録をすることはもうあるまいという気もする。

それはそうと、今回の旅は大変興味深いものだった。もっと英国史を読んでおくんだったとしみじみ思う。それでも垣間見た英国、特に18世紀から19世紀にかけての英国は面白い。旅をした仲間みんながそう思ったに違いない。公式のザ・ロープニュース増刊号ではあんまりスペースがないからつい事実に限られてしまうのだろうが、もっとみんなの感想を聞いてみたい気がする。

もう一つ、今回はかなり体力のいる旅でもあった。もちろん長距離はバスだが、見学というのは当然のことながらすべて歩きで、しかも対象の見学場所はたいていが広大な面積を持っている。ぼくの住んでいる横浜市には健康何とかいうプロジェクトがあって希望する市民に歩数計を貸与しているし、ステーションを通じてその記録を送信できる。そのためにどれだけの歩数を歩いたかの記録を取り出すこともできるのだ。

時差の関係で、正確な日時とはずれているが旅行中にどれほどぼくが歩いたかをご披露しよう。夜に出歩いた人は別にして、ほとんどの仲間がこれぐらい歩いているはずだ。

6月17日 成田からロンドンへ6,117歩 18日 
ブリストルとグレート・ブリテン 10,466歩  
19日 プリマス、ブリックハム11,341歩
20日 チャールスタウン、フォイ、ポルペロ 13,833歩
21日 サウサンプトン、ポーツマス10,087歩
22日 ポーツマス、ヴィクトリー14,862歩
23日 グリニッジ、カティサーク17,567歩
24日 チャタム 10,185歩
25日 ハンプトンコート・パレス 15,557歩
26日 ロンドンから成田へ5,716歩

8日間毎日1万歩以上歩くのはかなりしんどい。しかもただ歩くのではなくて、見たり聞いたり、写真を撮ったりするのだ。もしこれを人に強制したらストライキが起こるだろう。それでも喜々として爺さん連が(失礼、比較的だが若い人もいる)歩いたのは興味があったのと、なんといっても船キチがそうさせたとしか考えられない。何よりよき仲間と、付け加えなければならないが牛堂さんという名ガイドに恵まれた。

比較的人数が多いのと、どうしても一緒に行動する機会があまりなくて多くのメンバイーについてこの小文の中で触れることができなかった。感謝の意味を込めて最後にメンバーの皆さんのリストを掲げておく。

12 安藤 雅浩 151 川島 壮介 41 青木  武 166 松原  満 60 田中 武敏 189 福島  一 80 三田村 勝 191 石川 美雅 94 土屋 勝司 198 屋敷 一樹 142 塩谷 敏夫 211 日吉 泰史 149 佐藤 憲史 216 堤 実千夫















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