将棋棋士~奇妙な生き物とその語録①
「私から闘いを取ったら何が残るといえよう。勝負師である限り、命が尽きるまで勝負に明け暮れるのが棋士のさだめだ」
――加藤一二三・九段
私は、将棋が好きだ。将棋を指すのは苦手だが、「棋士」という生き物に、ものすごい興味がある。そもそもの将棋の入口は、私は、「読書」と「テレビ」だった。「読書」は、たまたま、羽生善治・九段の『直感力』とか、『決断力』などの新書から入った。その後に、加藤一二三・九段が、「アウト・デラックス」に出ていて、その特異なキャラクターに、度肝を抜かれてしまった。いきなり、羽生さんとの対局した棋譜を持ってきて、マツコさん、ナイナイ矢部さんに対し自慢する、ネクタイが長いVTRを見て笑われる、など数々の伝説を残した。それから、様々な棋士を見るようになった次第である。
しかし、この棋士という生き物の発言。同じ人間なのに、かなりの含蓄があって面白いのである。ストレートな表現もあれば、やや捻くれて、婉曲的な表現もあり、奥が深い。将棋棋士とその名言を紹介していきたい。
1,藤井猛・九段
戦法「藤井システム」の創始者であり、2000年に、竜王3連覇の偉業を成し遂げた、振り飛車の革命児、藤井猛・九段です。1991年4月、20歳で、四段昇段、プロ入り。羽生九段とは、誕生日が2日違いですが、藤井猛・四段の時、羽生さんは、その前月にタイトル・棋王を獲得しております。ちなみに、この年の5月に、私・高橋が誕生しています。
順位戦のA級は、10期在籍の実績をもっております。現在は、級位が下がってしまい、順位戦は、B級2組、竜王戦は、2組に在籍しております。2016年に、45歳11ヶ月で、銀河戦・本戦トーナメント決勝で、広瀬章人八段を下し、最年長で優勝。昨年は、約7年ぶりに羽生九段と叡王戦で対局し、下すなど、ニュースになりました。
多少、逆転負けが多く、ネットなどでは、「終盤のファンタジスタ」といじられることが多いです。本人も、気にしているらしく、解説などでも、終盤にさしかかると首をかしげることが多いです。2006年の順位戦で、羽生三冠に大逆転負けを喫したときは、将棋の駒を将棋台にぶちまけ、悔しさを滲ませた、という負けず嫌いなところも兼ね備えています。(将棋棋士は、みんな負けず嫌いだと思いますが……)
藤井猛・九段(以下藤井九段)は、ニヤニヤしつつ、ボソボソとユーモアを交えながら、解説することが多いです。味があって面白いのですが……。後輩の棋士や仲の良い女流棋士にいじられることが多々あります。また、藤井聡太七段の活躍により、自身のことを自虐的に「じゃない方の藤井」と発言しております。二人は仲良さそうです。
ちなみに、前にも言いましたが、私は一時期、「高橋システム」と名乗って、アマチュアでお笑いをやっていた時期があり、「システム」の由来は、藤井さんの戦法にあやかって付けました。
藤井九段は、名人・棋王のタイトルの獲得経験がある丸山忠久九段とともに、遅れてきた「羽生世代」として、台頭していきます。そんな藤井九段の語録を紹介していきたい、と思います。藤井九段の最も有名な名言として、「鰻屋」発言というのがあります。
「最近は居飛車党でも四間飛車を指す人がふえましたが、戦法の好き嫌いがないっていうのが、また僕には不思議です。しかも、にわか四間飛車党が結構いい味出すんですよ(笑)。でも、こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない。」
――藤井猛・九段「将棋世界2004年5月号」より
「四間飛車」や「藤井システム」という戦法に「誇り」と「プライド」を持っているが故の発言でしょう。職人気質から、言える発言だと思います。そんじょそこらの「四間飛車」と一緒にしないでくれ、オレが「四間飛車」だ、ともとれます。「四間飛車=藤井九段」というイメージを植え付けた発言だと思います。かっこいいです。
また、A級からB級1組、B級2組に連続降級したときに、このような発言をしておりました。2つ、紹介したいと思います。
「以前は、A級棋士がB級2組に落ちたら『墓場行き』と思った。でも本当に終わりかは、その人次第。いつか落ちるなら、また上がる機会をねらえる若いうちがいい。新しい鉱脈を見つけた今は、地球の裏側で、裕福ではないけど、初めて見る景色と新鮮な空気の中で生きている気分です」
――藤井猛・九段(2012年4月17日 朝日新聞夕刊)
「B1から落ちたら墓場だと思っていた。でもそうじゃないんだ。落ちたらまた上がればいいんだよ。そう思えない精神状態がおかしいんだ。何度でも上がればいいんだから」
――藤井猛・九段(将棋世界2012年5月号)
2012年に、藤井九段は、目覚ましい復活を遂げます。「角交換四間飛車」という新戦法を、試行錯誤を重ねに重ね、棋戦では活躍をします。王位戦では、羽生王位に挑戦者として、名乗り上げ、立ち向かいます。結果は、1勝4敗でしたが、この年の順位戦B級2組で、9勝1敗の成績をあげ、見事1期で、B級1組に返り咲きます。
この名言・語録を読んで、私は、こう思いました。
そのままだけど、落ちたら、また這い上がればいい。私の場合は、仕事・職を辞めたら、また探せばいい、それか、作ればいい、と教えられたようなものです。
藤井九段は、「才能」ではなく、「努力」の人だと考えます。
その証拠に、座右の銘であり、揮毫をするときは「涓滴」と記すことが多いです。涓滴の意味は、こちら↓です。
「涓滴」(読み・けんてき)
意味①水のしずく、したたり。
②わずかなことのたとえ。
「涓滴岩を穿つ」(読み・けんてきいわをうがつ)
…わずかな水のしたたりも、絶えず続いていれば岩に穴をあける。たゆまぬ努力を続ければいつかは大成することのたとえ。
――三省堂「大辞林」より
なんか、かっこいいですね。遅咲きではありながらも、自分の独自の戦法と世界観を編み出し、不屈の闘志で這い上がってきた藤井九段。今後も、目が離せません。
私も、文章を書いて、書き続けて、「涓滴」を積み重ねていきます。頑張ります。
2,木村一基・王位(九段)
遅咲きの棋士といえば、もう一人、僕は、この方を思い浮かべます。木村一基・王位(以下・木村王位)です。「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれ、1997年4月、23歳で、四段昇段、プロ入り。タイトルを獲得した将棋棋士の中では、一番遅い昇段なのではないか、と思います。(20歳以上で四段昇段プロ入りし、タイトルを獲得した棋士は、前述の藤井九段、森雞二・九段、そして、木村王位くらいでしょう)。竜王戦1組通算10期、順位戦A級通算5期という実績を持つ、一流の将棋棋士です。
木村王位は、2016年までに、6回、タイトル挑戦者として登場しています。このときは、森下卓・九段とともに、「無冠の帝王」という不名誉な異名が付けられ、本人も、相当悔しさを滲ませながら、将棋を指していたと思います。
ここで、私の好きな名言を紹介していきたいと思います。
「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう」
――木村一基・八段(将棋世界2007年5月号)
こちらも、好きな名言です。木村王位の真骨頂ともいえる言葉でしょう。木村王位の将棋は、基本、受け将棋であり、上記のように「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれています。また、粘り強く、諦めないという性格で、上記の名言のように、負けだとしても、最後まで指す性質とのことです。実際に、2001年に木村五段(当時)は、竜王戦挑戦者決定戦において、羽生四冠(当時)を1手詰めの頓死を食らわせています。本人は、「相手が誰であろうと信用しない」とのこと。
たぶんこの発言は、木村王位が2007年に、A級に昇級したときの言葉だと思います。
少し話が変わりますが、将棋界の巨人・大山康晴十五世名人の名言にも、このようなニュアンスの言葉があります。
「助からないと思っても助かっている」
「将棋は自分一人だけが頼りである。ある意味では孤独の戦いだ」
――大山康晴十五世名人
自分を信じているからこそ、言える名言だと思います。
続いては、米長邦雄・永世棋聖です。
3,(故)米長邦雄・永世棋聖
将棋連盟の会長を務め、将棋はもちろんのこと、それ以外でも、様々な伝説を残したといわれる米長邦雄・永世棋聖です。1963年4月、19歳で、四段昇段、プロ入り。1979年4月に九段昇段。1998年4月、現役のまま、永世棋聖を名乗ります。タイトル獲得数は19期(歴代6位の記録)。順位戦A級以上(名人含む)は、27期連続在籍しておりました。1993年に、49歳11ヶ月で、名人を獲得しております。2003年に現役を引退。2012年12月18日に、69歳で死去。奇しくも、大山康晴十五世名人と同じ年齢で死去しました。
米長邦雄・永世棋聖(以下米長永世棋聖)は、4人兄弟の四男として誕生しました。3人兄は、全員東京大学出身でしたが、米長永世棋聖は、中央大学4年次で退学しております。定かではありませんが、米長永世棋聖の名言で、このような発言があります。
「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
――米長邦雄
将棋棋士は、本当に特異な世界で、プロになれる人は、年間4~6人程度という形になります。確かに、今の人口で換算すると、1億2500万人と想定したら、0.0000032~0.0000048%という、かなり狭き門ということがわかります。ちなみに現在の東大生は、一学年、3,000人くらいいるそうです。どちらが、難しいといえば、一目瞭然です。
しかし、噂によると、本人の発言ではないそうな……。芹沢博文九段が、そのように言った、と冗談めいたとのことです。それが独り歩きしたそうです。ちなみに、こちらにその原型となるものが書いてあって、「兄たちは腐っていた。自分の給料より多かったので」との趣旨のことを書いています。
ちなみに、米長永世棋聖の兄(どの兄かわからない)は、「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」と返したそうです。
そんな、天才の超面白い発言は、生前までやっていた、ツイッターに凝縮しておりました。一部を紹介したいと思います。
面白い。将棋界の人は、真面目で堅物のイメージがありますが、中には、このような変人もいます。デーブ・スペクター氏ばり、いやそれ以上のユーモアとウィットに富んだダジャレ・発言で、楽しませてました。時に、世相を切り、時に「うんこなう」とか言ってしまう先生に脱帽です。米長伝説は、いろいろありますが、ぜひ調べてみてください。ここでは言えない、もっとひどいのもあります。
スランプへの対処法として、最も上策、極意ともいえるやり方は、「笑い」である。
――米長邦雄
僕は、この発言がいいな、と思いました。確かに、僕は、お笑いが好きでしたが、「あなたにお笑いを愛しているとは言わせない」というエッセイというか手記で、なぜ決別するに至ったか、を綴ろうと思ったわけです。しかし、フランスのジャック・タチ監督の『ぼくの伯父さんの休暇』という映画を観て、「笑い」っていいな、と思い、少ししたらお笑いファンに戻ろう、と思いました。それで、米長永世棋聖の名言を見て、確信しました。
少ししたら、加筆・修正いたします。次回は、羽生善治・九段、加藤一二三・九段の名言を紹介します。
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