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「意義」とは自分で見つけるものなのか。

帰宅時間は遅くないけれど「一人」粛々と黙々と淡々と目の前の課題・これから先に繋がっていく課題をこなしていく日々。今日は朝早くから出勤しなければならない…わけでもなくそれは何とでも理由を付けて逃げることはできるけれど、多分、それをやり始めたら人として終わりで人として終わる以前に「あの場所からの逃避」開始の合図だと思うから理由を付けて逃げることは「まだ」したくないので(まだ「逃避」する段階ではなく、人として終わってしまうことする気はさらさらない)それでも朝早くから出勤はせざるを得なかったので、嫌々出勤。だから、ひたすら一日が長かった。これから先もこんな生活・人生が続くのかと思うとそれだけで不安で堪らなくなるし、こんな生活・人生を続けたいとは思わない。

今進み続けている道をこれから先も進んでいくのか。今進んでいる道を軸として、脇道も進んでいくのか。今進んでいる道を本線として残し続けて、新しい道を探し見つけ決めてその新しい道を進んでいくのか。いずれにせよ、今進み続けている道をこれから先も何となく進んでいくのだけは避けたいし、避けなければならないことだけははっきりしている。「それならば、毅然とした態度を持って前に進んでいけばいい」ことはわかっている。自分の頭の中を少しでもポジティブな方向に変えていった方がいい。「どの道を進むことになったとしても」

「ならば、全てを捨てて…」くらいのことをしなければ、それはもう無理なんじゃないかってネガティブなことを考えてしまうくらいには、今日の朝のように早く出勤せざるを得ないことだけじゃない日々自分が向き合っていることに「向き合っている意義」を見出せないと、そんなネガティブなことも考えてしまうのは人間として至極まっとうなんじゃないかって思うけれど「何かが間違っているだろうか」

「意義」とは自分で見つけるものなのか。「意義」を見出す為には「何か」を示されるべきなのか。両方とも正解ではないか。「何か」を示されることで「自分で」見つけることができるもの。「自分で」見つけたことは、全て「自分だけ」の力だけで果たせたものではない。「何か」が示されたことで「自分で」見つけることができ、それが「自分の」力になっている。そういうものではないか。その「何か」がポジティブなものであれば「意義」を見出せる。その「何か」がネガティブなものであれば…疲労しかもたらさない気がしてならない(苦)

無理を通して通りを引っ込ませる人達に振り回され(当人達はそんな気はさらさらないから…悲しい)そこに今の職場全体の環境・空気感が重なり合い、苦痛でしかない。「年月を重ねてきた」から相手も「気づき」があって適切なご指導ご鞭撻のほどを…(皮肉)なんだと思いたいけれど、「うーん…うーん……」なことの方が多い。それに対して私ははっきりと自分の意思を示すことが必要。それを今更したところで「反感」を買うだけで、それがまた苦痛になっていて負の連鎖状態。それが生みの苦しみとしていい方向に変わっていければいいけれど、「変わるはずがない。長年に渡って続いてきてしまったことが」

状況が変化することがあったとすれば、それは恐らくは自分自身が変化しているだけで「周りは変わっていないことの方が多い。変わっているようにみえても、根本は変わっていない」そんなものだろう、人間は。

そうやって諦観している部分があるだけまだ救いがあるのかもしれないと思いたい。いや、ほんと、それくらいじゃないと「今」を生き抜けないし、「これから」はもっと酷いことになるだろう。いや、もう、酷いのは決定か。「繋がり」がないに等しいのだから。それでも僕はまだ「今の道」にこだわるのだろうか。

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