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働き続けてきた結果、得たものは?

何かを得る為には、何かを失わなければならない。何にも失わずに何かを得ることは難しいだろう。私のような人間にもあったと思いたい「大切にすべき人、大切に思ってくれる人、向き合うべき環境、新しい繋がりや縁を得る機会」に向き合うべきだったにも関わらず、「向き合うべきではない人達、環境に向き合うことで精一杯で、そうした「大切なもの」を無碍にしてきてしまった。その結果として「生き抜いてきた」「生きる糧を得てきた」のだろう。それはそれでよかったのかもしれないけれど、そうした人達・環境を無碍にし、新しい世界への扉を開くチャンスを逃してきてしまってよかったのか。それでも「生き抜いてきた」「生きる糧を得てきた」からトントンだからいいのか。

言い訳…いいわけがない。両方を得ることは難しかったとしても「孤立と孤独」な状態に陥ることになってしまったのだから。

客観的に見ても人の巡り合わせは悪くはなかったと思う。けれど、「構造的なもの」が阻害要因となり向き合うべきではない人達・環境だけじゃない「持つべきではない」緊張感が生まれ、自分が生き抜くために「黙々と淡々と粛々と」そんな人達・環境に向き合わざるを得ない状況に追い込まれてしまったような気がしてならない。独りよがりな考え方で受け取り方の問題なのはわかっているけれど、「それを言い始めたらきりがないし、そんなことを言う人は突っ込まれたら困ることがあるからそんなことを言い出すのだろう」と思ったり思わなかったり。

事実…いや、愚痴はさておき。

「貴方にとってのしょうがないは、私にとってのしょうがない」ではない。私と貴方を置き換えても同じだろう。自分が経験したことでなければ相手のことを理解はできず、自分が困っていなければ相手のことなんて考えるはずもなく、「構造的なもの」が「しょうがない」って感情を生み出すものだけれど、「相手にとってのしょうがない」を持ち出された側の人間にとっては如何ともしがたく、それが目上の人間から持ち出されたものならもっと如何ともしがたくなるものだと思うけれど。だからこそ、年齢を重ねるほどより謙虚に寛容になり「相手を理解しようとすること」が必要なんだと思う。そこまでできて「環境を整備できる」のだろう。けれど、現実はどうか。「自分にとってのしょうがないを相手にも強いる」ことでそれ以上のことは何もしない。「何もしようともしない」だろう。

「何かをしようとする」だけでもだいぶ心象も変わってくるのに。

ずっと感じ続けてきた違和感。言葉にできる違和感だけじゃない、言葉にできない違和感を抱き続け20年近く働き続けてきた。「何かが違うんだ そう思う日もあるけれど ただ1つ確かなこと ここで生きている」ことを感じながら20年近くも働き続けてきたという現実がある。その現実にどう向き合い対処するか。対処しながら自分の人生との折り合いをどうつけていくのか。それとも折り合いをつけずに我が道を進み続けるのか(それにも限界があり、現実的ではない)

もう1つ確かなことがあった。受け入れるべきではない理不尽なことを黙って受け入れて「生き抜くことはできた」けれど、その結果として大切にすべきものを失っていた結果としての「今」なら、今のままでいいわけがないし今のままでいいと思っていない。ただ、20年近くの間についてしまった「力になるべきではない力」からの脱却と新しい居場所を見つけることは難しいのも現実なわけで。

思い切った行動をとれないのがもどかしい。これが年齢の壁というやつなのかな。

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