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「吐き出す」「繋がりを感じられる」ことは、

「ストレス」状態を把握したいと思いウェラブルウオッチを購入した。腕に余計なものがついている感覚が嫌で、昔から腕時計を身に付けるのが嫌いだった。だから、「大丈夫かな?」と心配していたけれど違和感が全くなく腕に同化している感じで、ほぼ毎日身に付けている。風呂に入るとき以外。風呂でも問題ないようだけれど。何となくそれは怖くて。こういうところは感覚が年寄り(苦笑)

どこまで正確なものかはまだわからないけれど、ほぼほぼストレスフルな状態で眠っている時ですらストレスが…ああ、仕事中は言わずもがな。ただ、眠る前にnoteへの投稿をするようになってから眠っているときに休息状態が維持されるようになっていて、仕事中やそれ以外の場所で「誰かと会話している時間」には休息状態になっていることに気が付いた。まあ、たまたまかもしれないけれど、「吐き出す」「繋がりを感じられる」ことは、安心感を得られるからだろう。

そんな当たり前のことですらない生活・仕事。それをこれから先も続けるのか、続けざるを得ないのか。そんなことを考え始めてしまうとまたストレスが負荷されてしまうけれど、1つはっきりしているのは「今の人生は間違っていることの方が多い」ということだろう。「誰もが間違いながら人生を生きている」…のはわかっている。「誰か」に言われなくても。人は誰しも間違いながら生活を続け、そんな生活に向き合いながらその間違いを修正しつつ生きていきものだと思う。それが人生。

間違いを修正しあいながら妥協しながら生きていくものだと思う。その過程でお互いに議論し行動していくことで、お互いに理解しあい折り合いながら生きていくものだろう。そんなことも「誰か」に言われなくてもわかっている。そうしたことが足りないまま長い年月が経過してしまったことが、普通の人なら当たり前にできているであろう「吐き出す」「繋がりを感じられる」ことができなくなっているのは個人の問題に起因することは重々承知しているけれど、どうしても個人の問題だけが原因だったとは思えない。他責的・他罰的な考え方を持つことは自分を「モンスター化」させてしまう要因になってしまうのかもしれないけれど。

構造的不遇(人との組み合わせに恵まれなかった)、自分を押し殺して他者に合わせ続けてきてしまった(構造的不遇から自分を守る為にそうせざるを得なかった)それが結果として「吐き出す」「繋がりを感じられる」機会を逸し続け、孤独で孤立していったのではないかと。そして、そこから生まれてくる「嫌な緊張感」をずっと漂わせて目つき顔つきに現れてしまっていて、それがまた…と負の連鎖。これはどの時代・世代でも起きていることだと思うけれど、どの時代・世代よりも「構造的不遇・自分を押し殺して他者に合わせ続けてきてしまった」人が多かったのではないか、就職氷河期世代の人間は。同世代と接点のない孤独で孤立している人間がそんなことを言う資格はないのかもしれないけれど。

人は他者と「接点がなければ話さない」もので職場ではよりその傾向は強くなっていくものだと思うけれど、……いや、そもそもそんな考え方をしているから「吐き出す」「繋がりを感じられる」ことができなくなっているだろう。自分自身の根本的な考え方が間違っている。それは認識していなければならないだろう。ただ、「接点がなければ話さない」場所で長い時間を過ごしてしまって、それが当たり前になってしまってはないだろうか。当たり前にしちゃいけないことを当たり前にしてしまっていて、変えることを面倒くさくなってはないないだろうか。

それで得たものは、何?

それをちゃんと考え、現状をしっかり認識しているようにしよう。「自分の」これからの後半の人生の為に。

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