見出し画像

「食べること」

“昔々、ある国の夫婦が他の国へ逃げるために荒野の道を旅することとなりました。夫婦には可愛い一人息子がおりました。三人は荒野を進んでいきますが、やがて持っていたわずかな食料が尽きてしまいました。荒野の道はまだまだ続きます。そこで夫婦は泣く泣く愛する息子を殺し、その肉を干し肉にして、息子の肉を食べながら砂漠を進んでいくこととしました。二人は自分の息子の肉を食べながら、「一人息子はどこにいってしまったのだろう」と嘆きつつ、旅を続けるのでした”
この悲劇的なお話をなさった後、お釈迦様は修行をしている弟子のお坊さまたちに、こうお尋ねになりました。
「この夫婦は、自分の楽しみのためにこの食事をとったのでしょうか? 軽々しい気持ちでこの食事をとったのでしょうか? 我が身を太らせたり見目良いものにするためにこの食事をとったのでしょうか?」
お弟子さんたちはこう答えました。
「いいえ、二人はただ自分の身体をたもち、この荒野から脱出できるようにするという、その目的のためだけにこの食事をとったのです」
お釈迦様は「食事はまさにそのように考えるべきですね」とお教えになったのでした。

これは、先日タイ仏教翻訳家の浦崎雅代さんのご主人、ホーム・プロムオンさんに教えていただいた「子肉喩経」(A Son's Flesh(息子の肉))という、パーリ語のお経の中にあるお話です。

「食べる」ということの仏教的な意味を教えてくださった中で伺ったのですが、実はこのお話を聞いて、自分の「食事」に対する意識ががらっと変わりました!

この「息子の肉」の逸話を伺ってからは、食事の前に『荒野を歩く3人の姿、やがて食糧が尽き、泣く泣く子どもを殺す親、そして悲しみながらも我が息子の肉を食べて荒野を進んでいく夫婦』の姿が頭によぎるようになりました。

画像1

以前から、「五感の偈」(1)や「食事の前のお経」(2)というものを知識としては知っていました。また、健康面で「食べ過ぎないようにしなきゃ」という考えもあり、「一口で30回かむ」とか、「腹八分目」を意識して食事の重さを量る、一口ひとくちを真剣に味わってみる、など色々やってもいましたが、ついつい「お金をかけたのに捨てるのはもったいない」とか「もう一口くらいなら」など理由をつけて、満腹を過ぎて食べてしまったり、何度も間食をしたり、なかなか「食欲」が上手く抑えられなかったのです。

しかし、『荒野を歩く3人の姿、やがて食糧が尽き、泣く泣く子どもを殺す親、そして悲しみながらも子の肉を食べて荒野を進んでいく夫婦』のイメージが浮かぶと、「自分の食事もまた、魚さんやトリさん、ウシさん、お米さんや野菜さんの命をもらっているんだ。そのような尊い命をもととして作られた食事なんだ。この世という荒野を自分がなんとか渡っていくために必要なだけを食べられれば、それだけでありがたいなあ」という気持ちがふつふつと沸いてきます。自然と、「満腹」になる前に、食事を終えることができるようになってきました。また間食もしなくなりました。(食べ過ぎて苦しい~(そして肥満…)ということも無くなりました!)

考え方が変わると、行動も変わる」と、よく耳にしますが、私の場合、正に「息子の肉」という逸話は、「食」に対する自分の考え方を変えるきっかけとなってくれたように思います。


(1)五感の偈(wikipediaさん)

(2)食事の前のお経(気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(7)浦崎雅代(翻訳家)さんの記事)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?