忘れてたぁ

死に損ない。

私が死ぬのを止めたやつを殺し損なったのが私が死に損ないである最たる理由だ。

私は生きるために頑張りたくないのだ。

だから私が死ぬのを止めたやつが一生私が死ぬまで面倒を見ればいいと思う。

もしくはさっさと私のことを殺せばいいと思う。

どいつもこいつも死ねとか死ぬなとか無責任に言いやがる常だ。

すべてがどうでも良い。私は人を観察し、学習し、条件反射で笑ったり泣いたりしていますがどれも心の奥には響いていない。

ただ無気力な状態が続いている。

誰も私に話しかけないでほしい。私の心はずっと前に大きな穴が空いてしまった。

死ぬななんて言う奴を一人残らず殺して死にたい。私が死んで悲しいとか可哀想だから。責任とれないから。だったらいっそ殺して、皆に死ねばいいよあんな奴って恨まれて死にたい。

そんな事をずっとずーっと前に思っていた。
忘れてたぁ。

でもさっき、思い出した。

今人並みの生活も送れないのに生きていることに、ムカついてきて、絶望した。

でも、どうしてか一番死にたかった当時より、少しだけ心が戻ってきたのかも思い出した。

半年くらい前から読んでくれている読者がいるならしつこいだろうが、透明な檻(人間)の話だ。

今は概念として私の中に存在する透明な檻が人間だった頃。透明な檻は何よりも優しくて、私のことを外界の価値観から、私との価値観の同化によって守ってくれていた。

「私が死んだら君は泣く?」

出会って間も無い唐突な私の問に泣き虫な檻は「泣いてほしいの?」と聞いてきた。そして少し間を置いて「たぶん泣くけど、泣いてほしくないなら努力はする」と続けた。

阿吽、という言葉を先に使い出したのは檻の方だが、割とはじめのうちからそうだったようだ。私は檻に「君は?」と聞く。檻は「自分なんかの為に泣かないで、笑ってほしい」と言った。

一緒とか、似てるとか、他の誰が言ってももう、檻の前では戯言に過ぎない。それくらい、私達は阿吽だった。

心地の良い檻だった。心地が良すぎて出るのが嫌になった。
心地の良い檻だった。心地が良すぎて相手が人であることを忘れていた。

私は檻だった人間を破壊し、檻だった人間も私を破壊した。

私達は壊れた。

その後も私は檻の代わりになる人間を探したが、とうとう巡り会えず、探すことにも疲れてしまった。

そして私は優しくてずっと側にいてくれる檻の概念を再構築した。透明な檻とは、死のことである。

私はもう何年も前から生きることに疲れているのだ。
しかし、いつだって死と抱き合って眠っていると思うと安心するのだ。

それでもたまに、透明な檻が人間として存在して、手を繋いで笑顔で「みんな死ね」って叫びながら一緒に廊下走っていたことを思い出すと、今の孤独が切ないです。

きっと、思春期に死にたいと言った人間はいたとしても、10年以上経って大人になっても尚、あの時死んでいればとか、自分は死に損ないだとか、考えている人はもう多くはないのだろうと思う。

そもそも、私は思春期に死にたいとは言っていなかった。ただ、死んでやるか殺してやるかの二択しか頭に浮かべることができなかっただけだ。死にたいとか言っている場合ではない。実行あるのみだ。

そして、大人になって私と一緒の気持ちだった友人達はとうに自殺してしまったか、揃いも揃ってサロン系の詐欺に巻き込まれて消息を絶った。だから、もう本当にあの時の死にたみを引きずったまま死に損なっているのは僅かしか残っていないのだ。

透明な檻であった人間はかろうじて息をしている。
私はもしその人が私より先に死んだ時、かつて約束した通り笑ってあげられるだろうか。

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