打撃→覚醒。からのメンブレ。

前回のしょーもないエッセイもどきでは、大衆アイドルを推す自分と、自分の世界観を合致させるために自ら発狂してしまったことを書いた。

その日の私もカマキリがハリガネムシに操られ、水中に身を沈めるようにAmazonPrimeで配信が始まったばかりの映画を見た。無論、キラキラアイドルが出演しているからだ。

映画は好きだ。ストーリーの事を言っているのではない。演出、美術、照明、音響の芸術性のことを言っているのである。大学で映像表現の講義を取っていた。知識があると楽しみ方の幅も広がる。

しかし私が今から見るのは所詮アイドルを起用した映画。彼らの客(悔しいが思考を放棄し、狂気に堕ちた私のことである)に金を払わせる為に作られている演出も脚本もペラなアイドル映画なんて腐るほどある。今回もその一つだと思って私は見た。

開始5分もしないうちに、私は今からアイドル映画を見させられるのではなく、ちゃんとした映画を見させられるのだということを痛感した。(〜させられるというのは私の悪い口癖の一つである。それ以外の最適な受動的な表現が見当たらないのだ)

今までに見た映画のオマージュが所々に散りばめられている。それは撮り方であり、音響であり、台詞であった。演出家が、監督が、物語が始まる前にもう何かを訴えかけようと、表現によって何か伏線を張ろうとしている。

掴みは上々、私は誰がそれを演じているかなんて忘れ、映画に魅入った。

ストーリーはともかく、映画で語られたのはかつて私が経験したクソみたいな退屈と苛立ち、フラストレーション。その他諸々だった。

私はあろうことか、映画に没入し、作中に登場する“私”に共感していた。

いや、共感だけではない。悔しかった。

なぜなら、私はこの登場人物たちの感情を知っていた。出てくる登場人物たち全てに共感ができた。

即ち、私はこの登場人物を書くことができたというわけだ。先を越された。私は、小説家として成功している原作者を思って正気に戻った。

映画は、あまりにも美しくラストシーンを迎えた。

私は自分自身に何が起こったのか分からずに狼狽えた。まるで横っ面をぶん殴られたような衝撃だった。なぜ今まで書かなかったのか。

私は原作者のSNSから得られる言葉を朝が来るまでインプットした。次の日、作者の出版した書籍を全て揃えた。作品を観賞する上で、作者の価値観をできる限り理解したいという考えあっての行動である。

そして結論はこうだ。

はじめからやれよ、という話だがこいつはここまできて、やっと自分のやらなくてはいけないことが見えたらしい。

奇しくも私はキラキラアイドルによって現実から離れ、キラキラアイドルによって戻されたのだった。一体なんの為の時間だったんだ。

しかし、得るものはあった。信頼に値する言葉を得るために購入した雑誌にはプレッシャーの中ひたすら努力し、走り続ける半ば狂気じみたマインドが記されていた。雑誌は写真集から自己啓発本へと姿を変えた。

やはり、きっと端から私は彼らの客ではなかったということなのだろう。私が憧れたのは表現者ではあったがそれはあくまでも小説家であった。

現状、私は誰が見ているのかもよく分からない、多分誰も見ていない。小説にも満たない自己哲学を羅列する空気と化している。

表現者になる夢を持つもの、途中で諦める者は評価されないレベルに行くまでにきっと誰からも見られないことで夢を諦めるのだと、そんなことまで思いはじめた。

私が筆を置くときは、私が死ぬ時だ。まだ、その時ではない。絶望するにはまだ早い。

私はまた夢を見る。私の書いた小説が映像化される夢。大衆を笑顔にするキラキラアイドルが私の本のせいで画面の中で小動物を殺し、服を肌ごと切り裂かれ、骨が砕かれ、爪を剥がされ、血だらけになって、虫を食わされ、涙を流している。そして大衆は傷付き、絶望し、歪んだ正義感で私を嬲る。私はやっと、大衆と同じ気持ちになって心から泣き、笑う。

ああ、最悪だ。なんで私はいつもこうなんだ。誰かの哀しみに寄り添いたいだなんて言っておいて、結局私は大衆を自分の世界に引き摺り込みたいだけじゃないか。しかもちゃっかり罪の清算まで計画に入っている。なんなら清算の後、罪悪感を植え付けることすら考えはじめている。

これが私の弱さか。弱さを見せると愛されるとか言うけど、たぶん限度というか、加減というか、方向性というのがあるのだろう。

私はいかに自身が社会に適合しないか実感した。社会に適合しないから小説を書くことしかできない。堂々巡りが始まった。

そして私は、その鬱憤を晴らすべく日記を書き始めた。




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