死なないでって言うエゴイスト
死にたい人に向かって死なないでっていう人って、本気で死にたいって思ったことがない人だと思うし、大好きで大切な人が自殺したことがない人だと思う。
死にたい人の気持ちが分からない。
例えばそれは、食べることが好きな人が胃瘻を作ってまで生きたいかとか、そういう話。
死にたくて本当に死ぬ人って嫌なことがあったから死ぬとかじゃなくて、自分のポジティブな感情が無くなっていて、それがいつまで続くか分からないから絶望して死ぬのだと思う。
前まで好きだったものに何も感じられなくなった。
前まで面白かったものに何も感じられなくなった。
前まで楽しかったことが何も感じられなくなった。
前まで嬉しかったことが何も感じられなくなった。
そうやって、ひとつひとつ失われていく感覚。
そして何も新たに気持ちを動かすものが無い感覚。
それが分からないから、きっと生きてればいいことがあるなんて言う。
いいと思う感覚が無くなっているから死にたいのだ。
そして、大切で大好きな人が自殺していない。
もしでも、そんなこと考えたくないと目を塞ぐ。
もし、大切な人が自殺したら哀しいのは当たり前だけれどそれは自分の主観で。そんなことはどうでもよくて、死を選んだ大切の選択を尊重することができるか?それとも死という大きな最後の決断を自身の感情論のみで否定するのか?
自殺は、自殺した者の最期の人生の選択だ。
それを、自身の感情のみで否定することを当たり前に遂行できるのか?それは大切な人の人生を否定することにはならないか?
そういうことを、たぶん考えたことがないのだろう。
だから、無責任に死なないでなんて言えるのだ。
誰がはじめから死にたくて生きるもんか。
何か流れがあるのである。
死という選択は唐突に現れるわけではない。
死なないでを言うには遅すぎる。
もうずっと遅くて、もうずっと前に壊れる予兆はあったのに、そのときに気が付かなかった落ち度であることに、偽善者は気が付かない。
偽善者はそのエゴイズムによる偽善を、偽善であるとすら認めることができない。彼らは流暢に、都合の良いように愛という言葉を出してくる。
愛の定義すらも言語化できない奴らに愛を語る資格などない。
なぜ言語化できないのか、それはバグにも似た感情の昂りであるからだ。結局感情だ。
他者に真剣に向き合い、理解しようと努めるとき、自分の感情は一番不要である。それなのに、その感情がさも正義のように振りかざされる。
悪意が無いだけに鬱陶しくて仕方がない。
「ここに、君を愛している私がいるから死なないで。」
なんて、なんて呪いの言葉だろう!
本気で死にたい人間には罪悪感を与え、死ぬほどでもないが無気力な人間を依存させる。
言葉は毒だ。上のような言葉によって救われる者がいたとしたって、それはただ相手に依存するだけだ。依存は長期的な依存先への破壊行為であると同時に、依存先からの洗脳を受けやすい危険な状態である。
どちらが先か、もしくは共倒れか。そういうものだ。
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