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死にたいあなたに捧げるゾルピデム。

GW明けの休日、皆様はどうお過ごしだろうか。金曜も休んでまだ明けてないよって方、金曜に学校なり仕事なりに行ってもう次の平日が嫌な方、はたまた自分のようにGWなんてもん存在しないよって方。様々だろう。

これは休みが明けるのが憂鬱でなんならちょっと死にたくなってる方に向けてのツイートだ。言葉が少々キツいのは目を瞑ってほしい。

できればここでは持ちこたえて。ただ、自分が望む幸福な死の形について考えてみるのは少しおもしろいかもよ。というのが私の考えだ。

ちなみにカミュの幸福な死については未だ読めていない。

さて、私は死ぬことに関しては並々ならぬこだわりがあるのでできれば譲りたくないのだが、休むことおよび辞めることについてはあまり気負いしない。勿論辞める手続きは大嫌いだが、そういう時は業者に委託する。あるのだ、会社を辞める代行サービスが。

死んだら終わるが、死ななければそれはいくら辛かったとしても、時間が過ぎれば通過点になる。

私のやけくそとも言える思考回路の原点については少し説明が必要だ。

私はかつて定時制高校に通っていた。

2人分定員オーバーした受験を突破し、入学式に参加したクラスメイトは私を入れて40人。

私の出席番号は39番。

入学式直後に後ろの席の40番の女の子が手続きの問題でいなくなって39人。
新学期から留年したひとりが増え、40人。
学校が始まって1週間、前の席のお腹の大きな38番がいなくなって39人。

気がつくと不登校気味の子たちがちらほらあらわれ、入学から一ヶ月後、GW明けにはクラスメイトが正式に30人になっていた。

それからまた人が出たり入ったりして、最終的に卒業したのは27人。

やれ5月病だ、中弛みだ、ゆとりだ、温室だ、社会不適合だ、何だかんだと聞きたくない言葉が大人達から飛び交う。

友人が辞めて孤高になっていた不良生徒が教師に噛み付く。自己責任だろ。うちの学校の校訓である。ごもっともであるが彼は学年主任に首根っこを掴まれて進路指導室改め説教部屋に連れていかれた。

私達はその様子をぼんやりと眺めていた。教師に掴みかかるのも自己責任というわけだ。

一ヶ月で10人も辞めた私達のクラスは、良くも悪くもお互いが干渉し合わない生徒が残った。他人にも自分自身にも地位にも勉学にも部活にも友人にも恋愛にも興味がない集団だった。

消えた彼らの中にはもしかしたら真っ当な青春を取り戻したかった人もいたかもしれない。

定時制に通う人間達の特徴は、全日制を受験しても確実に落とされる脳に欠損があるとしか考えられないレベルの馬鹿か、片親或いは両親がいないかなりの貧困、何らかの理由で中学に行けず(行かず)全日制高校の受験資格である出席日数が足りていない者、もしくは全日制に通える条件は満たしているが顔を合わせたくない人がいる者である。

ひとことで片付けるなら、逸れ者。そして私のクラスは必要以上に人間不信を拗らせた逸れ者が一同に介してしまったわけだ。

青春を取り戻すのが目的ではない。即ち誰とも揉めず、極力人とは関わらず、3年通って卒業さえできればそれでよいのだ。加減は違うだろうがそれが卒業した27人の総意と言っても過言ではない。

裏を返せば、辞めていった彼らの信じるものや思想は一ヶ月で打ちのめされた。青春に憧れた者たちは可哀想だが消えて然るべきだったのかといえばそういうことを言いたいのではない。レジスタンスでもジハードでも起こせばよかったのだ。

それでもこの連休という幻惑と、連休明けという憂鬱の気怠さが、無気力に拍車をかけた。無気力に学校に通い続ける人間もいたが、長続きはしなかった。

卒業した私達はGW、夏休み、冬休み、春休みと長期休暇がある度に登校する人数が一時的に5人ほど減り、期末のこれ以上休むと取り返しがつかないというところで戻ってきたりしてなんやかんや卒業にありつけた。

教師達から本人にあと何日休むと単位を落とすという連絡はない。ただ、なんとなく優しいクラスメイトが教師に聞き出し、本人に個人LINEでやんわりと伝える。人を変え、季節を変え、それの繰り返しだ。

協力しあっていた気はない。どちらかというとバトルロワイヤルだ。皆、クラスメイト達が持ちこたえることより、脱落していくことの方をエンターテイメントとして捉えている。

それが悔しくて、さっきまで電車で泣いていた奴が教室では涼しい顔をしている。

当時はいじめは無いと思っていたが、今思えばあったのかもしれない。中学の頃に集団リンチを経験した人間が多すぎた。誰か一人が何かやっても誰も何も言わない。同調もしなければ注意もしない。

きっとグループLINEに流された私が更衣室で着替える写真は誰かしらの写真フォルダの奥底に眠っているだろう。とにかく、苛立ちはしたが私も下着姿なんてくれてやった。そんなことを気にしている場合ではないのだ。

それは、みんな同じだ。

まるで生き残る最後の人数は決まっているみたいに、クラスで1番明るかったあいつが、1番頭の良かったあいつが、1番おしゃれだったあいつが、滑り落ちていく。零れ落ちていく。違う、感覚がまともなやつから消えていくんだ。

でもそれは重苦しくて、閉塞的で狂っている学校からの解放でもあった。自由に自分で茨の道を切り開くか、しょうもないバトルロワイヤルで生き残るか。

別に高校をでなくとも高卒試験は受けられるのである。学校にいけなくなったら、従来の高校卒業資格は高校を卒業して取るという概念を打砕け。

学校だけではない、これは全てにおける。

学校や職場にいる限り、ヒエラルキーからは抜け出せない。ヒエラルキーとは数字だ。数字は時に確かで便利かもしれないが、人間を数字で評価するなんて馬鹿のやることだ。人間は確かな存在ではない。数字ひとつで優劣をつけられたらたまったもんじゃない。そして、優劣をつけるのもまた不完全な人間だ。

社会のバランスは、はじめから保てるように出来ていない。システムから崩壊している。それでも皆、バランスが保っているように見えるように繕っているのだ。

安定なんてものははじめからどこにも存在していなくて、残るも離れるも個々の選択次第だ。

さて、残った私は高校を“薬漬け青春アミーゴ”と手を組み、離れ、最後の最後に心を失い、なんとか卒業した。薬漬けといっても、違法薬物ではない。ゾルピデムで健忘遊びだ。私達は薬がないと眠られなかった。

私は今でも夜は眠れないし、あいつは今でもゾルピデムを酒で服用して眠っている。

消えたはずのあいつは最近になってふと現れ、私の誕生日には言葉をくれた。そういうやつなのだ。今はそれでいい、離れていても私は生きていける。あいつも今はまだ、生きている。

そうして卒業した私達だが、ずっと学校が腐っていたかといったらそうでもなかった。誰か一人が何かやっても誰も何も言わない。同調もしなければ注意もしないと前述したが、一人抵抗し、寡黙ながらいけないことはいけないと声を発し続けていた人間がいた。

彼は成績こそ良くなかったけれど、最初から最後まで、筋は通った人間だった。
あの時、生徒指導室に連れて行かれた不良生徒は卒業式で答辞を読んだ。

文化祭でも、球技大会でもシラケていた私が、クラスが、ざわついた。死んだ目をしていた私達は一同に歓喜し、興奮した。高校生活で1番のハイライトだったかもしれない。

誰かは見ているのだ。成績だって、テストで学年一位を取ったって、皆勤だって、生徒会経験だって関係なかった。努力が報われなかったという話をしたいのではない。

結局人の心を動かすのは心だった。

どうにでもなるのだ、心さえ失わなければ。
辞めても、残っても。綺麗事なんかじゃない。真実だ。

でも、死んだら終わりだ。

いや、違う。終わらせたいから人は自殺するのだ。

高校3年、私の心が消えた原因は薬漬けの相棒が目の前からいなくなったからだけではない。

憧れで、初めてで、1番の表現者である友人が自殺した。私は、その自殺が彼女の表現者としての最後の作品だと思うとなんとかやっていけるが、もし、本当に現世に嫌気が差し、見切りをつけたのだとしたら、耐えられない。

彼女は心は失っていなかった。それならば、心を守るために死んだとでもいうのだろうか。

心が死んでいないなら、何者にもなれるのに。心が死んでいても、心がある人間によって心を取り戻すことができるのに。

閉塞的な世界から逃げ出すために、命を投げ出してしまったのだろうか。

人間は、一度しか死ぬことができないのに。

私のこの思考回路は恐らく普通に生きている人からしたら狂気そのものだと思うけれど、自己哲学を極めたところにあったのは死だったのだ。ポジティブな意味合いでの死。私は大好きな彼女が自殺を選択したことによって、自殺を否定することができなくなった。

命を投げ出すなら、私のように死について考えてほしいなんて話をしているわけではない。でももし自己哲学とか、言語化とかした事がないなら、する時間がないなら、なんとか作って悩んでみてほしい。

目先の楽しいことだけ考えていたら、目先の楽しいことが失われた瞬間に心が終わってしまう。だから目先の楽しいことが失われた時のことを考える。それに依存してないか?という自問自答である。

良くも悪くも、不変なものなどありえない。みんなうつろっていく。もし、不変があるとするならば、時間が進み続けるということだけだ。

あえてそれに逆らうなら死を選ぶしかない。
でもギリシャ神話で眠りは死の兄弟であるように、別に死ななくても眠りでいいじゃないか。

人は眠って目覚めてを繰り返して、日々、少しずつ生まれ変わっていく。

人は眠ることで夢を見る。

その夢が太宰のように女との心中なら、そうすればいい。三島のように革命と日本男児の為の自決なら、そうすればいい。

生涯かけた作品と作者自身の死が噛み合う時、私は作者も、作品も、信頼する。

多喜二、多喜二……小林多喜二についてはどう説明しよう。彼は、彼自身が訴えた問題を、彼の最も憎む方法で、彼の意図しない形で、彼自身が見せしめにされて殺されてしまった。多喜二が死んでも社会は変わらなかった。そうしてまた、連休が明け、人々が死にゆこうとしている。

連休明け、死にゆく人々は皆、多喜二である。秘密警察は家族であり、クラスメイトであり、教師であり、同僚であり、上司であり、後輩である。それだけではない。目に見えない期待とプレッシャー。そして恐らく一番は、どこへ行っても逃げられない、自分自身である。

だから私はゾルピデムを渡す。夜型になれない、死にたいあなたたちへ。用法を守って、眠りについてほしい。

明日のことは考えなくていい。あなたは眠りに落ちる瞬間、抗えない死を体験する。そして、本当に大切なこと、やりたかったことを思い出す。今更藻掻いたってもう遅い。あなたは何もできずに意識を失う。

そして気怠い朝が来る。あなたは、そこで何を選択するのだろうか。

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