一般的な常が非常である事について

一般的な理想の老後について。例えばそれはデイサービスを利用しながら自宅で過ごすこと。

私の祖母もデイサービスを利用しており、祖母や職員から話を軽く聞いた。

デイサービスを利用する理由として挙げられることとして、一人では入れない入浴を補助有りで受けられるというのがある。

しかし、デイサービスの入浴では制限というものもあって、その基準のひとつに血圧が低すぎても高すぎても入浴できないというものがある。そこでは、90以上でないと駄目らしい。私は平均85とかである。

デイサービス基準で、私は入浴できない。私の常が一般的な常でないことを思い知らされると落ち込む。

それは例えば体温調節も同じで、私は昔から体温調節機能が人と比べた時にぶっ壊れている。寒いところに行けば私の体温も下がるし、暑いところに行けば私の体温は上がる。

それに気付いたのは高校に入学した後だった。灼熱の体育館の中で体を動かす中、私の顔は熱く赤くなるが汗が出ない。休憩時間に水分補給をし、外に出て風に当たるも一向に顔の熱さは引かない。

自由な校風が幸いした。私は顔面と体を冷やす為に体育館の外にあった備え付けの蛇口で水浴びをした。やっと熱は引いたが、その頃には汗をかいていた友人たちよりもずぶ濡れになっていた。

幸い、それでも受け入れられた。というかみんなそのうち慣れた。私は体温調節が下手なのだと。夏は熱く赤いし、冬になれば誰よりも冷たかった。ありがたいことに、それを個性として誰も気にしなかった。

個人的な適応行為を貫くことは、ときに不良になることである。例えその適応行為によって、人と同じになれたとしても、人と違うことをしている時点でそれは淘汰される不良行為と見なされるのかもしれない。

幸福になるためのみんなが持っている通行書をそもそも持っていない私は、一体どうやって幸福になればいいというのだろうか。

悩みは尽きない……

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