綺譚 一本牙の獅子と共に歩む女
名はジンと言っていたはずだ。
衣子（よりこ）が小さい頃、よく夢に出てきた頭の良い獅子である。
口元から、大きな一本牙を右側に生やしている。
左側の牙は、途中で折れている。
昔、ひどい闘いをして、その時に折れてしまったのだという。
ジンがいる世界は、今は平和だが、その平和は獅子たちの闘いによって保たれてきたのだという。
小さい衣子は「要するにおまわりさんみたいなものかな」と夢の中でジンに聞いた。
ジンは「外から来る侵入者を排除するという意味では正しい」と応えた。
「でも」とジンは継いで言う。
「侵入者は、外からとは限らない。内側にもいることもある。なぜなら、この世界に住む知的な存在はつねに、悪と善の狭間にいるから」
小さい衣子はふうん、そういうものかなとしか応えられなかった。
だけど、何となく分かった。
親しい友だちでもたまには嫌なことをするし、嫌な感じの同級生も、たまには良いことを言うからだ。
■
そんな衣子はすでに成人し、人生の喜怒哀楽を一通り味わい、今ここにいる。
衣子は、心理カウンセラーとして活動している。
「癒やしの仕事」と思われるかもしれないが、実態は少し異なる。
心に苦しみを抱えた人の周囲を探っていくと、そこには、身勝手な親、お人好しな人を利用したい上司や同僚など、ひとりの人という存在の「闇」が見えるからだ。
もちろん、厳しい言い方をすれば、そうした「闇」に利用され迎合してしまう人も、「闇」に同調しているので同類だとも言える。
カウンセラーとして話を聞き、心の問題を紐解いていくその時、彼女はふと思うのだ。
人の闇は深い。
闇をあばいていくと、人の善も見えてくるが、底知れぬ人の悪も見えてくる。
そんな中でも、自分が平常心を保っていられるのは、あのジンという架空の動物が「人は常に悪と善の狭間にいる」ということを教えてくれたからではないか、と。
また、時々こうも思う。
私は最近話題の、見えない世界のなんだとか、神とか、そういうことは、正直分からない。
けれども、もしかしたら、あのジンという架空の動物が、いまだに、私のそばにいて、悪と善の狭間に立っている私のバランスを保ってくれているのではないか、と――。
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