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最後の浮世絵師、月岡芳年の魅力➁

今回は月岡芳年の魅力の第二回目です。
まだ1回目を読まれていない方はこちらから先にどうぞ。

芳年が浮世絵を発表し始めた時、時代は幕末の変革期でした。
描くテーマも描き方もそれまでの浮世絵とは違うものになっていきました。
時代の空気に触発されて、ことさらに凄惨な表現もやってみました。

ですが明治に入ってからは世情も安定したためか『血みどろ絵』の発表もなくなります。
代わって芳年は新たな表現へと進んでいくことになるのです。


メディアとの関わり、“伝える”浮世絵へ

明治に入り、報道メディアは瓦版から新聞に変わりました。版画の需要にも新聞の影響が浸透してきます。
それが『錦絵新聞』です。
要は絵がメインの新聞、現代の写真週刊誌みたいなものでしょうか。

芳年もいくつかの新聞に絵を提供します。
猟奇的な事件では『血みどろ絵』の残り香を感じさせますが、私にはこの辺から作風が大きく変わっていくように思えます。

求められるのはいわゆる“名場面”ではありません。
描かれるのは英雄ではなく一般人です。
一般人が決定的瞬間で見得を切るはずも無いので、顔のアップは使えません。
構図も重要ですが、あくまでも現実味が優先です。
人体の描き方もデフォルメは廃され、リアルさが求められます。

こうした要請から芳年の画風の中に現代的な味わいが生まれていったように思います。
それは歴史や物語を“現実のように”描くという作風に繋がっていくのです。

錦絵版『郵便報知新聞 第五百六十五号』明治8年(1875)
後妻を離縁した男が復縁を迫り、断られて殺害した。
リアルな描き方に見えて、構図も凝ったものになっています。
錦絵版『かなよみ新聞 第八百八拾四号』明治12年(1879)
身を持ち崩した夫を見かねて、妻が子供を出刃包丁で刺した後、自分ののども刺した。
衝撃の瞬間がまるで見てきたかのような迫真性で描かれています。

より劇的な表現への挑戦

明治に入ってからも芳年はもちろん本業の浮世絵も描き続けています。
それは伝統的な浮世絵の表現にとどまりませんでした。
そこにはより動きのある構図へのこだわりと、物語をお決まりの「名場面」としてではなく「意味のある瞬間」として自分なりの描き方をしようという意志が感じられます。

いよいよ“血みどろ”ではない芳年の魅力がはっきりと表れてくる時代に入って行くのです。

『一魁随筆』一ツ家老婆 明治5年(1872)
宿に泊まる旅人に吊り上げた石を落として殺し、金品を奪っていた老婆。
それを諫めていた娘はある夜、旅人と入れ替わって死んでしまいます。
二人の体と視線が二重らせんのように絡み合っています。
『一魁随筆』犬塚信乃 犬飼見八 明治6年(1873)
南総里見八犬伝』からの一場面。
芳流閣」の屋根から利根川へ落下する二人。
これは果たして想像から描ける構図でしょうか?
『西郷隆盛霊幽冥奉書』明治11年(1878)
この時期のものとしては特に異彩を放つ作品。
西南戦争で敗死した西郷隆盛がなおも幽霊となって
建白書を奉ずるという鬼気迫る姿。
当時この絵を買おうという人は西郷に共感していたのか、
洒落が利いている人なのか、どちらだったのでしょうか。

物語をより“意味ありげ”に描く手法

芳年は自分の作品で登場人物をお決まりのシチュエーションで描くという方法でなく、一定の“型”からは自由な描き方をして、その場面に劇的な雰囲気を持たせようとしていたように感じます。

いわゆる浮世絵のイメージの役者絵や美人画という「絵」単体で見せる作品から、取り上げた情景をいかにリアルで意味ありげに描くかという点に関心が向きつつあるように思えるのです。

歌川国芳『本朝廿四孝』信濃国善之丞 天保14年~弘化4年(1843~1847)
父の難病を治そうと地蔵堂に籠った善之丞に地獄の鬼たちが
父の悪行を鏡に映して見せます。それでも善之丞は仏に祈り詫びると、
その孝行心によって父の病は癒えたというお話。
歌川国芳は芳年の直接の師匠です。
『皇国二十四功』信濃の国の孝子善之丞 明治20年(1887)
師匠国芳から40年経ってからの作品とは言え、リアルさは格段に違います。
大人が寄ってかかって子供に説教をする場面。
この「寄ってかかって」を説話画に取り入れる感性がこの絵の新しさです。
『皇国二十四功』和気清麻呂 明治14年(1881)※初版
称徳女帝に寵愛されていた僧・道鏡に帝位を譲れば天下泰平になるとの託宣が宇佐八幡に下り、
その真偽を確かめに和気清麻呂が改めて宇佐八幡へ遣わされます。
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」
との託宣を改めて得た清麻呂は都に戻り、称徳天皇に命がけの奏上をします。
清麻呂の畏まる姿の迫真性は従来の浮世絵には無かったものだと思います。
佐久間文吾『和気清麿奏神教図』明治23年(1890)
命を奪われかねない奏上を行う清麻呂の決死の覚悟が伝わる一枚。
洋画家による日本歴史画の傑作ですが、むしろ芳年より後に描かれています。

「歴史の名場面」から『歴史画』へ

上記二点の「和気清麻呂像」は日本の歴史画の傑作と呼べるものですが、どちらも映画の一場面のように前後のストーリー展開が理解できていて初めてその意味が伝わるような性格の作品だと言えます。

描かれていることに対する知識と意味まで理解していることを求められる絵画とは多分に西洋絵画的ではないでしょうか?
そこでこれ以降芳年の作品と西洋画との比較もしていこうと思います。
突飛に思われるかもしれませんが、私は双方には共通する感性が存在すると考えています。

従来の浮世絵の「歴史の名場面」的な描き方から知的興味を満たすための描き方への変化は、「日本の歴史画」と呼べるものの誕生を意味しているように思えます。
この点については改めて最終回で述べたいと思います。


今回はここまでです。
次回は劇画のような芳年と、従来からある『美人画』でも従来の浮世絵を越えてしまう芳年を見ていきましょう。


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