小説に関する覚書、いくつか

小説を書くことは楽しい行為ではない。目は痛くなり、時間も失う。日本語の下手クソさ、語彙の貧困さに落ち込み、呆れる。そもそも日々の隙間時間、一日1ー2H程度でやっている。プロ作家という肩書きで呼ばれたいという確信すらない。しかし自分は純文学の公募に小説を応募する生活を続けており、気がつくと今年で4年目である。たまには立ち止まって、小説を書くという行為に関する覚書のようなものを書いてみたい。

自分が小説を書くときの目標

は、まずは最終候補に入ることだ。自分は作家ではなく、単なる文芸の独学者なので、コンテストを通過せねばならない。純文学五大賞(新潮、文學界、群像、文藝、すばる)では、一次選考は下読み、最終手前までは編集部が選抜し、選考委員が読むのは最終候補だけになる。

だから、まずはこの段階をクリアし、最終候補まで行く作品を継続的に書けるようになることを目標にしている。自分の文学を読む客観的な目を確認するために、公募にだしている、ともいえる。

その先は時の運というものもあるからあまり考えない。ただ連続して最終まで行けるのならば、再現性を含めた技量と独自の精神を持っていると言えるだろう。それを作家性と呼んでいるようだ。

分量

について。分量は大事である。地道に時間をかけて仕上げた長い作品を好む。昔からそうだ。その作品の中でしばらく生活したい。正面から地道に時間をかけて研鑽し、大きなもの、深いものを、言い訳せず、誤魔化すことなく正面から作品にしたものが好きなのだ。また、分量は努力の結果としてわかりやすい。もちろん、まとめる能力が欠如して長いというパターンもあるけれども。それが大体180枚くらいである。

書く側としても、描写を正確に行ない、メインプロットとサブプロットを走らせて三幕構成にすれば、自然とこの枚数には落ち着く。どうも思考の射程と言葉にした時のサイズ感、スピード感というものがあり、自分の場合、一つの作品で考えることを着地させると、最低でも180枚くらいになるようだ。

だから中長編を対象にした純文学の賞がターゲットになる。ちなみに直近で出した公募は250枚だったが、第一稿の300枚から50枚減らすのに苦慮した。純文学のデビュー作、受賞第一作は180−220枚くらいが好まれる。新人賞である(新人賞でしかない)芥川賞がそれくらいの中編の賞だからだ。

新しさとか

僕は別に、所謂「新しさ」は求めていない。形式は古典的で良い。人間の心身の構造は新人の登場以来変わっていないし、生老病死のサイクルも同じだ。だから、なんらかの普遍性に通じる型が生まれてこざるえない。型はあるのだ。型と芸術・人間の関係はライフワークのように考えている。

純文学ってなんだろう

ひとことでいえば、芸術として機能する小説のことだと思っている。

具体的には、以下の二つを満たす小説である。
1  文章が運搬する「言語化できる意味内容」だけではなく、文章と構造そのものも表現として機能していること

2  テキストが伝達する言語的な内容、非言語的内容と、表象である文章/構造がわかちがたく結びついていること

加えて複数のレイヤを重層的に扱っていると、読んでいて面白い。

宗教、哲学、心理、地理、歴史、物語などのレイヤがあって、それがプロットに沿って進んでいく感じ。ドストエフスキーの5大長編のように。

この章では宗教レイヤでこんなことがおきてて、物語としてはこのような出来事で表現されている、というように。レイヤ間を比喩でつないでいくと、強靭な構造体になり、やがて作品は鳴り始める。そしたらしめたものだ。

続く、と思われる。

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