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100の回路#30 コロナ禍における芸術のあり方とは? 感染症をきっかけに数々の作品が生まれた近世に学ぶ。 (民俗学者・畑中章宏さん)

こんにちは。
THEATRE for ALL LAB研究員の土門蘭です。

今回の「100の回路」でお話をうかがうのは、民俗学者の畑中章宏さん。
もともと出版社で雑誌編集をされていた畑中さんは、フリーランスに転身後、民俗学の世界へ。現在は「編集者」「作家」「民俗学者」という3つの肩書きを持ちながら、独自の研究を続けられています。

そんな畑中さんの目からは、今の「コロナ禍における舞台芸術」はどのように見えているのでしょうか?

「100の回路」シリーズとは?
回路という言葉は「アクセシビリティ」のメタファとして用いています。劇場へのアクセシビリティを増やしたい我々の活動とは、劇場(上演の場、作品、そこに巻き起こる様々なこと)を球体に見立てたとして、その球体に繋がる道があらゆる方向から伸びているような状態。いろんな人が劇場にアクセスして来られるような道、回路を増やしていく活動であると言えます。様々な身体感覚・環境・価値観、立場の方へのインタビューから、人と劇場をつなぐヒントとなるような視点を、“まずは100個”収集することを目指してお届けしていきたいと思っています。

バストアップ/全身

(畑中さんの全身写真です。港の船の発着場にて立っている姿です。短髪でメガネをかけ、ネイビーのジャケットにグレーのタートルニット、黒のパンツを身につけて、ネイビーのコートを羽織っています。パンツのポケットに両手を入れて、少し眩しそうな表情です)

畑中章宏(はたなか あきひろ)
民俗学者。〈感情の民俗学〉の視点にもとづき、民間信仰・災害伝承から最先端の風俗流行まで幅広い研究対象に取り組む。主な著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)、『天災と日本人』『廃仏毀釈』(ちくま新書)、『五輪と万博』『医療民俗学序説』(春秋社)などがある。

民俗学は「過去」から「今」を考える普遍的な学問

図1

(Zoomで話している畑中さんの写真です。メガネをかけ、紺色の服を着ています。)

そもそも、民俗学とはどういったものなのでしょう。
まずは畑中さんに、民俗学の主要人物や大きな流れについてうかがいました。

「日本で民俗学を始めたのは、柳田国男という人だと言われています。彼は『遠野物語』『一つ目小僧』などの代表作からわかるように、妖怪・幽霊といった怪異現象に関心を寄せた人。既成の宗教から溢れた、民間で維持されている信仰の中に、日本人の心のありようが見出されるのではと考えた人です。

そして主要人物の二人目が、折口信夫。彼は『万葉集』や『古事記』を基にしつつ、古代の基層的な日本人の考え方を研究していました。著書に『死者の書』という小説がありますが、これは日本人の死生観が古代から現代にかけてどう変化しているのか、あるいはどう変化していないのかを描いたものです。

その少し後に、南方熊楠という人も出現します。彼は民俗学者でありながら博物学者であり、自然の生物を研究していました。そこから人間と自然の関係、自然の持つ世界観や宇宙観を大きなスケールで論じ、それを基にして日本人の考え方を研究していたのです」

その3名が、民俗学の第一世代と呼ばれているのだそうです。さらに後の世代として、畑中さんは宮本常一と渋沢敬三を挙げました。

「宮本常一は、文章に記録されずにいた人々の生活に重きを置き、市井の人々がどんな仕事をして、どんな苦労や工夫をして生き残ってきたかを論じました。宮本は先に述べた柳田国男からも影響を受けていましたが、後に、渋沢敬三という人物の下で学び始め、さらに大きな影響を受けることになります。

渋沢敬三は、明治・大正期の実業家である渋沢栄一のお孫さんです。彼は経済人として活躍しつつ、民俗学の研究も行っていました。東京の三田に自身の収集物を集めた私設博物館を作ったり、後輩の学者に研究代やフィルム代を援助するなど、新世代の研究を応援していた人でもあります。

宮本と渋沢は、中でも日本の漁業に強い関心を持ちました。どんな釣り針や網を使っていたか、どんな舟を作っていたかなど、モノから先人の過去を見ようとしたのです。前者の3名が『心の民俗学』だとすると、彼らは『モノの民俗学』と言えると思います」

畑中さんは、民俗学についてこのように語ります。
「人々が生きる現実、そして感情がどのように生み出されているのかを、過去に遡り考える研究」なのだと。

民俗学は、ただ過去のことを学ぶものではない。
過去から現在、そして未来を考える、普遍的な学問なのです。

回路119 民俗学とは、「今」を知るために「過去」に遡り考える研究。

流行の背景に「民俗学」がある?

研究風景

(畑中さんが研究をしている時の写真です。港に浮かぶクルーザーの上に、マスクをした畑中さんが立っています。クルーザーの看板には「賢島ー間崎ー和具」と書かれており、バックには大きな橋が架かっています)

畑中さんには「民俗学者」の他に、現役の「編集者」という側面もあります。

その肩書きが示す通り、畑中さんの持つ研究テーマのひとつは「『流行』とは何か?」。
現在流行っている映画、文学、アニメ、ゲーム、エンタメは、なぜ流行っているのか……
その問いに民俗学的視点からアプローチすることで、今のムーブメントをより立体的に理解しようとされています。

畑中さんは「今目の前で起こっている流行現象も、先駆的に見える作品も、新たに作り出されたものではないんです」と話します。

「大ブームを巻き起こした『鬼滅の刃』も、斬新なアイデアによって0から作られたわけではありません。あの作品には『鬼』が描かれていますが、観る我々の中にすでに『鬼』のイメージがあるんですよね。
鬼は退治するもの、人里を離れて暮らしているもの、人を襲うもの、あるいは自分の心の裏側に潜んでいるもの……そんな「鬼」のイメージをもって、あの作品に共感・感動している。となると、日本人にとって鬼とはどういうもので、『鬼滅の刃』における鬼とはどういうものか。あの作品が流行る背景には、民俗的な鬼との関係性があるのではないか。そんなふうに論じられるわけです」

畑中さんは、ヒット作品には民俗的なモチーフが使われていることが多いと言います。例えば『ポケットモンスター』『呪術廻戦』……そのほか、日本のゲームには妖怪や精霊をモチーフにしたキャラクターが多く存在するのも大きな特徴なのだそう。そう言われてみれば、確かに心当たりのある作品が思い浮かびます。

「舞台芸術で言えば、東日本大震災以降の10年間は、死者との対話や霊魂の存在をテーマにした作品が増えたように感じます。いろんな作品に『死者とはまったく死んでしまった存在なのか』という問題意識が取り入れられている。チェルフィッチュの作品『地面と床』なんて、まさにそうですよね。現代美術・演劇の世界でも、民俗学的テーマが盛んに取り扱われているんです」

回路110 現在の流行作品の裏側にも、過去の人々が持った感情や風習が流れている。

劇場のオンライン化で失われるもの

図2

(Zoomで話している畑中さんの写真です。メガネをかけ、紺色の服を着ています。)

今起こっている流行に対して、民俗学の視点からアプローチし続けている畑中さん。新しいとされているものの中に「過去」があると同時に、「過去」もまた常に新しくアップデートされているのだと、畑中さんは続けます。

「民俗学では、盆踊りなどの民間芸能や、寺社仏閣での祭礼を取り扱うのですが、それらは『神楽』という言葉の通り、神様を楽しませて五穀豊穣を祈る目的がありました。そういったものを民俗文化財として捉えると、民俗学者が発見・評価した時点で、その状態をずっと保つべきだという考え方になりがちです。でも、それまでにもさまざまな変化が起こって、その結果、学者が発見した状態になっているということもあり得ますよね。

例えば、人口や構成員の変化で祭りの式次第も変わっていっただろうし、農業よりも工業が盛んになれば祈願の目的も変わるでしょう。近くの街の祭りを真似て、『これはいいな』とアイデアを取り入れた時期だってあるかもしれません。

そう考えると、民俗文化財としての祭礼は常に変わり続けるのが自然なこと。伝統的なものが時代に合わせて更新されるのは、否定すべきことではないのです」

それでは今のコロナ禍も、まさに「伝統的なものが時代に合わせて更新される」時なのかもしれません。
三密回避、ソーシャルディスタンス、緊急事態宣言……そのような規制に縛られている今、THEATRE for ALLは劇場をオンライン化しようと試み続けています。

そのことに対して畑中さんのご意見をうかがうと、「コロナ禍において、伝統的な祭礼や民間での舞台芸術などは厳しい制約を受けました。ただリアルで難しいからと言って、オンラインで代替可能なのかは、まだ判断を保留したいと思っています」という答えが返ってきました。

「というのも、舞台の上で身体を動かしたり、声を出して音を立てることっていうのは、見ている人と呼応することなんですよね」

ここで畑中さんは、宮本常一の例を挙げます。

「宮本常一は、民俗調査のメモとして多くの写真を撮る人でした。その中に祭りの情景を撮ったものもあるのですが、これがいい写真なんですよね。

何がいいかというと、宮本は舞台の上だけじゃなくて観客側も撮っていたんです。舞台を観ている人はどんな世代で、どんな格好で、どんなことに興味を持ち反応しているのか。人々にとって、祭りがどういうふうに『見られているのか』に目を向けていました。これって、すごく貴重な資料なんですよ。だってみんな、おもしろいことが起こっている舞台の方ばかり撮ってしまいますからね。でもこれがすごく大事なんです。

つまり、祭りや演劇などの舞台芸術は、演じている人だけでなく観ている人もいて初めて成立するということ。相互的な作用によって成り立っているということです」

だからこそ、インターネットに媒体が移された時に、意味合いが変わってくるのではないか。そのように畑中さんは懸念します。

「ライブ会場って、隣に見知らぬ人がいたり、自分とは違うシーンで反応する人がいたり、緊張感の伝播や空気感の共有があるじゃないですか。それって情報では伝えられないものだから、いくら美しい映像や良い音の配信だったとしても、オンラインでは伝わらない。そして、そこにこそ芸能の意味合いがあるように思います」

視聴者が何人いて、コメントがどれくらいついて、というのはあくまで数字上でのリアクションでしかありません。実際に生身の人間が同じ場所にいてこそ、相互的に影響を受け、作品全体が作られていく……それが本当にオンラインで再現できるのかは、確かに深く議論されるべきテーマだと感じました。

もうひとつ、畑中さんは懸念事項を挙げてくださいました。

「ライブ会場に足を運んで、終わったら家に帰ってくる、というライブを取り巻くその一連の行為自体が、ある種の非日常、ハレですよね。だけど、インターネットを通すとどこまで行っても『ケ』でしかない。自分の部屋でお茶を飲みながら観るって、日常じゃないですか。だからオンライン上では、演劇や祭りの持つ非日常性が再現しにくいだろうなぁと思うんです」

だからこそ、「再現ではなく、まったく別のものを生み出さないといけない」と畑中さんは話します。

回路120 オンラインは、リアルの舞台芸術の代替ではなく、別のものを生み出す装置。

感染症をきっかけに生まれた、さまざまな表現

図3

(Zoomで話している畑中さんの写真です。メガネをかけ、紺色の服を着ています。顎に手を当て、にっこり笑っています)

では、いったいどうすればいいのか……。思わず途方に暮れそうになる私たちに、
「とはいえ、感染症は今に始まったものではありません」と、畑中さんは民俗学の視点からヒントをくれました。

「古代から現代に至るまで、疱瘡、コレラ、麻疹など、さまざまな感染症が世界を襲っては収束してきました。そしてその時々で、疫病を防ぐとされるお札やまじないが流行したんです。近代からはあくまで気晴らしだと捉えられてきましたが、今でもそういった迷信に頼るところが我々にもありますよね」

今のコロナで言うと「アマビエ」が例として挙げられます。江戸時代、現在の熊本県にあたる肥後国に出現したと言われる、疫病を予言する妖怪ですが、SNSではアマビエのイラストがたくさんアップされたり、厚労省の呼びかけのアイコンにも使われました。

「でもこれは近世の人が描いたもので、我々が生み出したものではないんですよね。近世には他にも、疱瘡絵とか麻疹絵といった、病に効くとされる絵が描かれて、錦絵や包装紙になったりしました。そのうちいろんな画家が『こんな絵の方が面白いんじゃないか』とどんどん工夫し始めた。効き目に対する期待と、作品としてのおもしろさが同立していたんです。そんなふうに江戸時代では、感染症をきっかけに新しい技術や表現が生み出されていました」

制限のある状況に陥っても、それを逆手にとる形で新しい表現に挑んできた近世のクリエイターたち。現代のコロナ禍においても、そんな表現の模索に対する気概やおもしろがりが必要なのではないかと畑中さんは言います。

画像3

資料名「痲疹送出しの図」(所蔵館:東京都立中央図書館特別文庫室)
(「痲疹送出しの図」です。肌に赤い斑点をつけた大きな子どもが、白い服を着て、供物の赤い餅とともに神輿に担がれています。その神輿を、法被を来た人物たちが担いでいるのですが、彼らの顔は水飴や汁粉など、麻疹の患者が食べても良いとされていた食べ物になっています)

「例えば、近世には地震を起こすと信じられていたなまずを描いた『鯰絵』というのがありました。これはもともと地震のお守りのようなものと考えられていたのですが、中には別の意味合いを持つ作品もあったんです。そこには地震で家が壊れて打ちひしがれている人々とともに、復興で大儲けして喜んでいる建築業者も描かれていた。少し視点を変えると、こんなにも『なまず』の意味合いが違うのだということが、この絵では表現されているんですよね。

今の美術や芸術には、そういった『笑い』の要素が欠けているのではないかと思うんです。ギャグとか爆笑じゃなくて、おもしろがるって言うかね。今の時勢に対してステレオタイプにリアクションするんじゃなくて、いろんな視点でおもしろがって見ることから、新しい表現が生み出されると思う。ある意味不謹慎さに近いかもしれないですけど、そこでのおもしろみみたいなものが、災害の本質や、私たちの感情の本質なんじゃないかなと思いますね」

その話を聞きながら、「『コロナ』というものは、私たちに向けられた『問い』なのではないか」とふと思いました。

制限がたくさんあり、不安や恐れもある。それが火種になり、差別や分断も起こっています。だけどその大きな問いに対して、不安や恐れ以外の答えを生み出し続けることが、芸術の役割なのではないか。畑中さんの言葉を聞きながらそんなことを思いました。

「ひとつのことが起こっても、良し悪しでは判断しきれません。その割り切れなさとか、腑に落ちなさ、ステレオタイプな起承転結に落ちていかない感覚が大事だと思うんです。

柳田国男もそうなんですけど、彼は書物の中でもなかなか答えを出さないんですよね。たくさんの事例を挙げて見せて、『あとは皆さんも考えてみてくださいね』で終わることが多い。

多分、それでいいと思うんです。だって、問題自体変質しているんだから。結論を出すことよりも、常に考え続ける運動の方がよほど大事。それがアーティストやクリエイターに必要とされる姿勢なのではないでしょうか」

コロナに限らず、世の中にはいろんな問題で溢れています。
ジェンダー、貧困、少子化、環境問題……でもそれらは今始まったものではなく、歴史の中で何度も繰り返され、変化し続けてきた問題です。
それらをひとつの固まった視点から見るのではなく、いろんな視点から見て、違う答えを出してみる。そして一度出た答えにしがみつくのではなく、またさらに考え、違う答えを出してみる。

その「違う答え」を出し続ける運動こそが、芸術のエネルギーの源なのかもしれない。そして、近世にはそんなクリエイターが確かにいて、たくさんの作品が生まれたのだと知ることは、とても勇気づけられることだなと、畑中さんのお話をうかがって感じました。

回路121 ステレオタイプな結論に囚われることなく、常に新しい答えを考え続けることで、新しい表現が生まれる。

畑中さんの書かれた記事は、こちらで読むことができます。
ぜひチェックしてみてくださいね。

https://gendai.ismedia.jp/list/author/akihirohatanaka


執筆者

土門蘭
1985年広島生まれ、京都在住。小説・短歌・エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事の執筆などを行う。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』(寺田マユミとの共著)、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。



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