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【映画】『マイノリティ・リポート』考察―視線―


監督・出演・原作・あらすじ

監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:トム・クルーズ、コリン・ファレル、サマンサ・モートンほか
原作:フィリップ・K・ディック『マイノリティ・リポート』
マイノリティ・リポート - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

あらすじ:トム・クルーズ主演×スティーブン・スピルバーグ監督の近未来SFアクション超大作!  西暦2054年、ワシントンDC。政府は膨大な凶悪犯罪を防ぐ策として、ある画期的な方法を開発し、大きな成果をあげていた。それは、予知能力者を利用して凶悪犯罪が起こる前に犯人を逮捕してしまうというシステムであった。このシステムのお陰でワシントンDCの犯罪件数は激減、将来的にはアメリカ全土で採用されるべく準備が整えられていた。そんなある日、このシステムを管理する犯罪予防局のチーフ、ジョン・アンダートンが“36時間後に見ず知らずの他人を殺害する”と予知され、告発されてしまう。追う立場が一転して追われる立場になったジョンは、自らの容疑を晴らそうと奔走するのだが、彼は既に大きな陰謀に巻き込まれていたのだった…。

マイノリティ・リポート | 20th Century Studios JPより

アメリカのSF作家、フィリップ・K・ディックの小説を原作とした映画。
彼の作品は他にも『アジャストメント』や『トータル・リコール』、『ブレード・ランナー』(もちろん『ブレードランナー 2049』も)など映画化されたものが複数ある。
このパートでは『マイノリティ・リポート』について、「視線」「見ること」をテーマに考察する。



限定される自己(観客)の視線


未来を予知するプリコグのイメージから物語はスタートする。そのイメージは、殺人が今まさに行われようとしているところのものである。それゆえに、観客は導入から強い衝撃を覚え、興味を引かれることになる。
しかし映し出されるイメージは断片的だ。視野も狭い。画質は粗く、再生速度も一定でない。詳細な全体像をつかみたいと観客が願っても、それは叶わないのだ。まるで他人の眼を借りて事態を見ているかのような、知りたいのに知ることができない、見たい部分を見ることができないというもどかしさが、冒頭からつのる。
主人公が自宅で家族との思い出を映像で見るシーンでも、彼の視線は限定されている。思い出は映像としてジョン(そして観客)の前に立ち現れるが、いわゆるホログラムのように立体的で全てを再現したようなものではなく、平面的で部分的なものである。そして再生されるのは美しい思い出ばかりだ。つまり思い出の一面のみを見ている。同時に、観客もそこで映されたジョン視点の思い出しか見ることはできず、その他の面を知ることができない。何らかの理由で家族が彼のもとからいなくなったことは推測できるが、その理由については不明のままだ。
情報や視点を限定し、観客にフラストレーションを感じさせる工夫である。



ままならない他者の視線


観客には自分の視野が思うようにならないもどかしさが冒頭から与えられる。次第に同様の感覚は、他者である登場人物たちの視線にも抱かれることになる。
自宅でホームビデオを再生する主人公ジョンは、優しく愛情に満ちたまなざしで、失踪した自分の息子を見つめる。しかし、すぐに表示される「END OF FILM」の赤い文字が一気に彼を現実へと引き戻す。観客はそれが映像に過ぎないことをよくわかっているが、ジョンは虚像の息子に話しかけるなど、過去と現在、虚構と現実との境界を忘れた様子だ。ここで観客は主人公と自らの視点との乖離を改めて感じることになる。
手術後の場面でも、観客にはキッチンまでのルートも冷蔵庫の中身も見えているのに、主人公にはそれが見えていないという状況が、軽い混乱を生む。自分には間違いようもないほどはっきりと見えているのに、主人公が誤った選択をしてしまうことが理解できず、歯がゆささえ感じる。
終盤、エコーとして削除されたマイノリティ・リポートは、真犯人を示す決定的な証拠としてパーティーで公開されてしまう。会場から密かに去ろうとする犯人だが、衆人の視線がスクリーンに集中した瞬間から、観客は事態をもう元には戻せないことを悟っている。他人の視線を操ることはできないとここまでで痛感した観客は、これほど多くの客の視線を映像から逸らすことなどできないということが充分すぎるほどにわかっているのだ。



摩擦のない視線

登場人物の心理との調和


一方で、一部から全体へと次第に広がっていくカメラの動きは、人間の意識の向け方と自然に調和するものとして、もどかしさを感じさせるような描き方とは使い分けられている。これにより、表層的なノイズは消え、登場人物の内面へのフォーカスがスムーズになる。
主人公のジョン・アンダートンは薬物中毒の警官である。盲人から薬を購入する場面では、ジョンを追い立てるように街頭広告から発せられるくどいほどの「安心」("Precrime, it works!" )という言葉が、彼の駆け抜けるスラム街の暗闇と対照的だ。その暗がりの片隅に潜む盲人のホームレスは、腕だけを白く覗かせていたのが、立ち上がって体全体を見せ、さらに自らサングラスを外すことで空の眼窩をあらわにする。これは観客の視線の動きと一致するものだ。これにより、観客はあたかもジョンとともにその場にいるかのような臨場感を持って、登場人物と緊張感や恐怖を共有することができる。

ちなみに作中の車は垂直方向にも移動できる


中盤、逃走するジョンが逃げ込んだ工場では、時間の経過とともにそこで生産されているものの正体が明らかになる。それは冒頭で転がり出た赤玉を彷彿とさせるような、無機質な雰囲気を濃密なほどに漂わせた赤い車であった。一部から全体へと、見る者に違和感なく情報を与えていく。そうして次第に完成していく車体を見つめながら、観客はジョンの心情に自然に寄り添い、犯される予定の罪を明らかにする覚悟を決めるのだろう。

視線の切り替え


ジョンは逃亡し、向かったアパートに犯罪予防局の警官が捜査のためやってくる。アパートの一室内(一部)を見る視点では、観客は住人と同じ立場で、蜘蛛のような不気味な機械に侵入される嫌悪感を共有する。一方で俯瞰視点(全体)で侵入される様子を見る視点では、機械が人の目をのぞき込む(網膜走査)ように観客も住人の部屋をのぞき込める形になると共に捜査の全貌を把握することができる。
ここでは多面的に同じ場面を描くことで、観客へ豊かに情報を提供している。事態を十分に認識させ、主人公の焦りや恐れといった感情に集中できる環境を整えている。
このように、この映画では意図的に視覚情報を制限する一方で、場面によっては摩擦やストレスのない視野を提供するというように、極めて効果的に視線の切り替えを活用している。



最後に


この映画では、犯罪予防のシステムには、情報への手直し(マイノリティ・リポートの削除)があることが判明する。だが、それは犯罪予防のシステムだけだっただろうか?思い返せばこの映画の世界では、視線を送ることで自分仕様の広告が自動で流れてくる。このことからも、主体的に手に入れているつもりの情報は、発信者によって作為的に選択されたものであることが暗示されている。そしてそれは映画そのものが、きわめて作為的に情報を観客に与えているという構造とも一致している
マイノリティ・リポートという作品は、この映画の持つ構造をうまく利用することで、フィリップ・K・ディック作品でしばしば描かれる巨大な権力をもつ組織により生み出される虚構を表現することに成功している。

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