金鶏飯店<6>
「…それで狒々嶋をハジいたという訳か」
丼飯と玉子をのせた盆を持ったままの血羆が三段重ねのサーティワンアイスクリームを床にぶち撒けた子供を見るような表情で嘆息する。
そこにはないはずのラムレーズンに目を落として俯くおれと牛頭の傍らで狒々嶋が醤爆龍鳳に顔を突っ込んだまま無呼吸潜水の世界記録を永遠に更新し続けている。
これでようやっと話が冒頭のシーンに追いついた訳だ。
話をまとめるのが下手なことと堪え性がないことがおれの欠点であるQ.E.D. が完了したところでまずは狒々嶋を衝動的に処分してしまった言い訳ををひねり出さなければならない。
「話を聞く限り烏谷の件がこいつの失態なのは確かなようではある。そもそもこのマヨ豚の悪食にはおれも辟易していた。また何かしでかした時はおれの判断で狒々嶋を処分してもかまわないとボスからの許可もいただいてはいた。が」
が、だ。中学生の万引きじゃあるまいしクンロク入れて無罪放免で済むような話ではない。
「あくまでそれは事の仔細を聞いて、十分に吟味したうえでの為すべきことだ。こんな豚とオランウータンの交配種のような男でもボスの所有物であることには違いない。お前らがこいつを勝手に処分してよい理屈にはならん」
「つまりおれ達も屠殺処分という訳か」
これで今日血羆とかち合う寸前になるのはもう三度目くらいになるだろうか。いくら勝ち目がないとはいえこう何度も続くとそろそろ面倒臭くなってきた。いっそおれが死ぬなり血羆が死ぬなりしてとっとと終わらせたくなる。
「とは言えこいつに振り回されたお前らについては酌量の余地があるとボスが考えるかもしれん。ここのところ組織は人手が減ってジリ貧だ。無闇に手駒を減らすのはボスの望むところではないだろう」
少しだけ部屋の緊張がゆるむ。
「この判断はおれの裁量に余る。ボスに連絡をとって指示を仰ぐからしばらく待っていろ。その間に喰う飯は用意してやる」
随分と甘ったるい事を言うんだな、というこちらの思惑を察したのか血羆が珍しく口角を吊り上げる。
「気づいているかどうか知らんが、この部屋の監視カメラはそこの天井の隅以外にもあと3台ある。そんなものに頼らずともお前らが余計な知恵を巡らせるのを見逃すほど耄碌はしていないがな。ここで待てという指示に従えない時の判断なら今のおれでも下せる。それが理解できる程度にはしつけが行き届いているはずとは思うがな」
この熊公は全てお見通しのうえで、おれ達に馬鹿面下げて餌を待っていろと言っていることは十分に理解した。
「兵隊を減らしたくない状況なのは事実だが、一方で組織が火の車でボスの機嫌がよろしくないのもまた事実だ。これから出す飯がお前らの最後の晩餐になるかもしれん。今日のメニューは奮発してやろう」
血羆はそう言って肩を揺すりながら個室を出て扉を閉める。かちゃり、と外から鍵がかかる音がした。
この飯店の個室は外側から鍵がかかる。
ここはまともな飯屋ではないのだ。
「どうする?」
泥水を被った野良犬のような表情を浮かべて牛頭が尋ねてくる。
「どうするも何も飯が来るのを待つしかないだろう。先の事はともかくこれからいつもより上等な飯が出てくる、それだけは確かだ。もう一度五糧液を頼んでみるか?今の血羆なら聞き入れてくれるかもしれんぞ」
「それはないな」
またしてもスピーカー越しの血羆の声が響く。
「例えボスがお前らを許したとしても、烏谷と鳶田のガラを片付けた掃除屋達への支払のツケは請け負ってもらう。五糧液の代わりに二鍋頭酒(五糧液と同様白酒の銘柄の一つ。五糧液よりかなり安価)を後で持って行ってやろう。せいぜい楽しめ」
泥まみれの犬がもう一匹増えた。
いぎぎ。
痛えよう。
痛えよう。
鼻が。
頬が。
瞼が唇が額が顎が眉間が乾いて痛えよう。
畜生。
尸解仙丹(しかいせんたん)の効果が切れちまってる。
ああ。
トビィ。
トビィ。
ああ。
ひでぇ。
トビィの額がソフビ製の人形みたいにベッコリ凹んじまってる。
愛らしい一重の奥の瞳が眼球ごと飛び出しちまってる。
トビィ。
冷たくなった唇をそっと撫でる。
トビィ。
眉毛がなく髪の毛も綺麗に剃りあげてたトビィ。
死人のような肌で、骸骨にそのまま皮を貼り付けたような顔のトビィ。
おれ以外とは誰とも口をきかないトビィ。
おれにだけは心を開いていたトビィ。
おれだけのトビィ。
おれが危ない橋を渡って台湾からあのヤク…尸解仙丹を仕入れるルートを引っ張って来た時も、丹を横流しすると決めた時も、いつだってトビィはおれについてきてくれた。
トビィ。
畜生。
胸のポケットから丹が入ったピルケースを取り出す。
指を全部落とされちまったのでケースのキャップを開けるのもままならない。
畜生。
畜生。
あいつだ。
あの豚野郎が。
狒々嶋。
ピルケースを傾けるとぼろぼろと指のない手から尸解仙丹が零れ落ちてしまう。
おれは這いつくばって床に落ちた丹を舌で舐め取り、噛み砕く。
ニヤつきながらおれの顔の皮を金梃で抉る狒々嶋の顔が脳裏にフラッシュバックする。
糞。
糞。
歯噛みしながら床に落ちた丹を舌で掬っていると飛び出していない方のトビィの瞳と目が合う。
こぶし二つ分ほど陥没したトビィの頭蓋は大きく歪み、後頭部からは茹で過ぎた玉子の殻の割れ目から零れた白身のように脳味噌が飛び出している。
ああ。
ああ。
トビィ。
トビィ。
あいつだ。
牛頭。
あのハンマー野郎が。
おれが狒々嶋に顔を捲られてるのを目の当たりしたトビィ。
普段は咳払いすらしないのに、地響きのような雄たけびをあげて銃を抜いたトビィ。
それを。
あの牛頭が。
あの馬鹿げたサイズの肉叩き槌を投げつけやがって。
その槌が唸りをあげてトビィの額にめり込んで。
きひ。
きひひ。
あれ。
なんでおれ、嗤ってるんだっけ。
ああ、そうか。
尸解仙丹が効いてきたんだな。
いいな。
皮を剥がされた顔の痛みも切り落とされた指の痛みもトビィを失った心の痛みもどれもこれもが苦痛を残したままいやその苦痛そのものがまるで温い湯に浸かっているような緩やかな心地よさとなってじんわりとおれの脳に染み渡ってきていつの間にか床に落ちた丹とともに零れたトビィの脳味噌を舐めとっているおれの舌を通してゆっくりと死んでいくトビィの記憶が味覚としておれの脳味噌に染み渡ってきてその痛みと恐怖もまた母親のぬくもりのように優しくおれの脳味噌をあたためてくれてそのぬくもりがおれの腹の底で煮え滾っている憤怒の炉をさらに熱く沸き立たせる。
いひ。
いひひひ。
トビィの傍らに倒れている掃除屋に目をやる。
そうだ。
尸解仙丹がまだ効いてた時に、見張りのこいつが一人になった隙に喉笛を喰い破ってやったんだっけ。
そういやこいつ、いいものを持っていやがったな。
掃除屋の腰に装着された、美容師がつけているようなシザーケースを漁る。
あった。
手術用のメスの束。
そいつの刃の方を口に咥えると、おれの切断された指の断面にメスの柄の方をずぶずぶと押し込む。
ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ。
痛え痛え痛え痛え。
ぎひひひ。
ぎひひひ。
ぎひひひひひひひひひひ。
手の先から杭のように突き立つ痛気持ちいい感覚に脳を焼かれながらメスの柄を手首あたりまでぐいぐいと押し込んでやる。
ぢっと手を見る。
おれの右手から薄い刃の人差し指が生えている。
次は中指だ。
きひ。
きひ。
忌避。
忌避避。
忌避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避避。
ほうら。
元通りの手だ。
見ろよ、トビィ。
いかしてるだろ。
なあ。
トビィ。
今度はお前の番だよ。
お前も一緒に、狒々嶋の野郎と、牛頭さんに挨拶に行かなきゃな。
アイツら、厭なヤツらだけどちゃんと挨拶はしないとな。
なあ、トビィ。
いつも一緒だもんな。
刃の生えた指をそっとトビィの頬にあてがう。
トビィ。
ちょうどおれの顔が空いてるんだ。
ずっと一緒になるんだよ。
なあ。
トビィ。