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バスタブとクリスマスマーケットから、「贅沢」を考える

長期化したモラトリアムのせいで、大学は卒業したのに就職せずに何故かスペインに留学をしていた当時の僕は、留学期間中の冬季休暇にドレスデンのクリスマスマーケットに参加し、ベルリンの壁をまじまじと見ることを目的とし、ドイツに1週間ほどの小旅行をした。

お金はなかったがまとまった時間と少しの自由を与えられた僕は、自由な時間を贅沢に過ごす方法をいろいろと考えてみた結果、その時たまたま破格の安さだったベルリン行きのチケットを取ることにした。

そして「暮らすような旅行をする」という一見格好良く贅沢なコンセプトを掲げて、知らない土地で現地住民のような過ごし方をするということを旅行の目的に据えることにしたのだ。

コーヒーを飲みながら本を読み、それに飽きたらランニングをしたりジムに行ったりして身体を動かす。非常に健康的な日常を異国の地で過ごすという贅沢は悪くない過ごし方のように思えた。

たくさんの本とコーヒーを抽出する器具(ドリッパー、フレンチプレス、エアロプレス)を各種、スニーカーとトレーニングウェアと少しの現金をキャリーケースに詰めてLCCでベルリンに向かった。

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その頃、ドレスデンの小さくて小綺麗なホテルで快適な時間を過ごしているはずだった僕はバスルームの床に素っ裸で仰向けに倒れていた。

スペインで僕が住んでいたピソ(スペインのシェアルーム)にはバスタブがなかったので、今回の旅はバスタブ付きの部屋をとるというこだわりを持って部屋をとっていた。久々のバスタブに喜んだ僕は熱々のお湯を張って長風呂を楽しんでいたのだが、その日の僕は風邪をひいてほぼ一日寝込んでいたのだ。そんな状態にも関わらず、というかだからこそ、しこたま身体を温めてやろうと長々とお湯に浸かってしまったのだ。

案の定、体温調節がうまくいかずのぼせた。バスタブから上がって数歩進んだところで倒れしまい、何故かそのまま眠りに入ってしまった。そうして起きたら12月のドイツの冷え冷えのバスルームの冷たい床の上で裸で倒れていたというわけだ。当然風邪は悪化し、体調最悪のままドレスデンを後にすることになった。(意地で向かったクリスマスマーケットでは、シュトーレンを買い、ホットワインを3口飲んだ。シュトーレンとホットワインが入っていたマグカップと、ホットワインを飲んでからおさまる事のない強烈な吐き気とともにホテルに帰った。滞在時間は10分だった。)

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その後向かったベルリンでは狙った通りの過ごし方ができた。バスタブ付きのホテルでコーヒーを淹れて飲み、本を読みながら過ごした。目が疲れると着替えて3-4kmほど走ってベルリンの壁に向かう。飽きるまで歩いて壁を見ながら散歩し、ホテルに帰って長風呂をする。食事をして夜の散歩をして眠りにつく。

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ふらっと入ったA.P.C.で一目惚れしたコートを買った。貧乏旅行なのに、心底気に入って奮発して買っただけあって、あれから7.8年経った今でも大切に着ている。

日本食レストランもあって、食事も最高だったし、言うことは何一つなかった。充実した気持ちとシュトーレン、マグカップ、A.P.C.のコートを帰りの荷物に加えて、帰りの便のチェックインを済ませた。超過荷物分の手数料を支払った。

航空会社の作ったシステムに従っていると、あっという間に国境を越え、ピソの最寄り駅に向かうシャトルバスに乗っていた。空白の時間を埋めるためにInstagramに旅のハイライトを載せ、何人かの友人とチャットで交流した。

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これが、僕が今まで生きてきた中で最も贅沢な1週間の過ごし方だ。何度思い返してもこれ以上の贅沢は思いつかない。"贅沢"というものは、システムや常識、経済状況などあらゆる状況に抗いながら、"あえて選ぶこと"なのではないだろうかと思う。

だから、贅沢の先には必ずしも成功や良質な体験が待っているとは限らない。あえて行った先で風邪をひいたり、散財したり、街を楽しめなかったりしたが、それでもそういう選択をしたという事実が贅沢であり、その贅沢は僕の人生を確実に豊かにしている。

"あえて選ぶこと"が"贅沢"につながるのだ、という観点から現代社会を見ると、効率主義が主流になりつつある昨今は息苦しく感じる部分も多分にあるが、あえてポジティブに捉えれば"贅沢全盛時代"なのかもしれない。

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