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「アンチヒーロー」・・・なのか

(ネタバレありです。要注意)

本当にいいドラマでした。長谷川博己に始まり木村佳乃に終わったという印象でした(最終話の、法廷で伊達原に叛旗を翻す緑川(木村佳乃)の「だって・・・検察の恥ですから」のシーンは鳥肌モノでしたし、全てが決着した後の桃瀬のお墓での「礼子、わたし達、頑張ったよね」はホント沁みました)。

「だって・・・、検察の恥ですから」

毎回夢中になって見てましたし、伏線の回収の仕方も見事としか言いようないですし(白木は「ひょっとしたら」と思ってましたが、最終話で緑川がこう出てくるとは予想してませんでした)、エンディングもよかったと思います。ホントにケチの付け所のないドラマでした(そもそもあんまり批評力ないですが 笑)。個人的に大好きなシーンは、第1話冒頭の明墨の(事実上の)モノローグ(これは全エピソード中最高。過去に観てきたドラマの中でも最高のシーンの一つ)と同じく第1話で尾形に対して明墨が「障害を理由に差別するような奴らは、絶対に許してはいけませんよ。では」と言ってmiletの「hanataba」が流れるシーンでした(他にもいろいろあるんですけど、今日の本題はそっちじゃないので)。

ただ、ただですね。「アンチヒーロー」なのか?この話は。という点が引っかっちゃったんです。(なんか、大好物の長谷川博己のダークネス(https://note.com/the_universe/n/nce21db44a149)もエピソードを重ねるたびに薄れていってしまったような印象も・・・。そもそも「アンチ」であって「ダーク」ではなかったのか・・・)。

最終話のラスト近くのシーンで拘留されている明墨に対して、赤嶺が「アンチヒーロー」について語ります。

「法律とは一体何なのか。罪を償い、やり直すためにあるのが法律だと。前までは思ってました。でも、今は知ってます。罪を償ったからといって許してくれるほど世の中甘くない。公平でもない。そんな不条理と闘うためにアンチヒーローが必要なのかもしれません。」

「アンチヒーロー」Last Episode

このドラマでは、「社会の善性を信じ(この社会は罪を犯しても償えば許してくれるなど寛容であり公平であると考え)、社会正義を実現する=ヒーロー」に対して、「社会の善性を信じず、社会という名の暴力から自分と愛する人を守る=アンチヒーロー」という構図になってたんですね。

乱暴に言ってしまえば、「殺されても当然のような人間が(司法の力によってではなく)殺されること」これを絶対に認めないのが「ヒーロー」で、場合によっては認めるのが「アンチヒーロー」ってことかな?ドラマ中でも「大事な人を守るためなら人を殺すか」という問いかけが重要なポイントポイントで出てきますし。

でもよ、ちょっと待て。このドラマの中で、少なくとも明墨サイドには、この「アンチヒーロー」いなくないか?緋山のケースは、緋山が無罪になったままなら、これを実現した明墨は「アンチヒーロー」だった。でも、明墨は、控訴審で緋山に殺人を認めさせる方針だった。その後の富田正一郎、来栖礼二、沢原麻希のいずれのケースも富田は有罪、来栖は仙道絵里の事件以外で有罪になる予定、沢原は無罪、といずれも「ヒーロー」的観点からみて有罪になるべき人間は有罪、無罪になるべき人間は無罪になってる。

そして最大の糸井一家殺人事件も志水の再審請求が認められたことで、「ヒーロー」的観点から救われるべき人間が救われた。

あれ?「アンチヒーロー」はどこに?

あ、いたいた。伊達原検事正。自分の家族を守るため、平気で事実を捻じ曲げる。これぞ「アンチヒーロー」。なわけないだろ(笑)。

う〜ん、わたしの解釈力では、今回の10回のエピソードは腐敗した司法権力に立ち向かう弁護士のストーリーであり、それは社会のあるべき姿、桃瀬の言葉を借りれば「司法の信頼と誇り」を信じる「ヒーロー」のストーリーだったように思えちゃうぞ。

このわたしの貧弱な解釈力に、U-NEXTで再度見返した最終話の中で、伊達原を訴追する法廷での明墨の証言が明快な回答をくれました。

「・・・この世の中はちっとも公平なんかじゃない。・・・(中略)・・・こんな不条理な世の中で、誰もが気付かないうちに自分の物差しで人を裁き、罰を与えている。時には二度と立ち上がれないほど厳しい罰を。本当に恐ろしいことですが、これが現実です。
だって、人は人を裁くことが快感ですからね。
法律とは何なんでしょうか。・・・(中略)・・・所詮、人間が作り上げた尺度です。法によって白となったことが本当に白なのか。黒の奥には、実は限りない白が存在しているのではないか。それを考え続けることこそが、こんな世の中を作ってしまった我々の役割なのかもしれません。」

「アンチヒーロー」Last Episode

このドラマの「アンチヒーロー」が立ち向かっているのは「人間が作ってしまった救いのないこの社会そのもの」だったんですね。この救いのない社会で、盲目的に社会のルールを守ることを正義とする人間をアイロニカルに「ヒーロー」と呼び、社会のルールである法も所詮は救いのない社会を作ってしまった人間がつくったものと喝破し、大事な人を守るために救いのない社会の不条理と闘う人が「アンチヒーロー」。

間抜けヅラでドラマを見ているわたしも含む今の社会に対するこれ以上ないほどの痛烈な皮肉。でも同時に、このドラマは、不条理に怯え「ヒーロー」となって不条理から目を背け逃げ続けた伊達原と違い、「ヒーロー」だった検事明墨が作り出してしまった志水の冤罪という不条理に「アンチヒーロー」となった弁護士明墨が真正面から立ち向かい勝利するという希望の物語でもある。そして、ドラマはわたしに問いかける「お前は「ヒーロー」なのか、「アンチヒーロー」なのか」と。

でも、わたしは、社会の不条理と闘う人のことは、「ヒーロー」と呼びたいかな。

(画像はU-NEXT SQUAREよりhttps://square.unext.jp/article/antihero-review-10




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