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【日記】 私は「仕合わせ」派です

人はよく「幸せ」について口にする。お酒の場でも、職場でも、家族との団らんでも、テレビからでも聞こえてくる。

私は「幸せ」という言葉が少し苦手である。「幸せ」という言葉の定義上、その基準を軸として必ず浮き沈みの波があり、意識し過ぎるとその反対の「不幸せ」も意識することになってしまう。そういうものをずっと追いかけて一喜一憂するのはもはやしんどい。それもあって、「幸せ」という言葉は安易に使いたくないし、できれば考えたくもない。

数年前、学生をしていた私はよくわからない焦燥感を抱えていた。ある意味でそれは大胆な行動の手助けともなったが、同時に自分と向き合わずに無闇に進み続けて少々無茶もした。何も考えずにとりあえず行動を起こす。何もしない日を作らずに、毎日何かをするようにした。世間のことなんて知らないから、とりあえず大人のマネをしながら。

今振り返ると、きっとすごく不安に感じていたのだろう。将来のこと、若い時間を無駄にしたくない意識、そんなことが謎の焦燥感を生み出していたんだろうと今になって思う。その根本の原因には共通して「幸せに生きていけるのだろうか?」という不安があったのかもしれない。

それから時は経て、例えば、何もしたくない日が三日三晩続いて、有給を無意味に消化して、家に引きこもって塞ぎ込みがちになりそうな時でも、メンタル的には特に何てことはない。幸せでも不幸せでもない。ただ、日々を過ごした、それだけのことである。

堕落やら、時間を無駄にしてるなんて気持ちは全くもって思わない。寧ろ、いかにして時間を無駄にできるか。そんなことしか今は考えていない。何もしないことを卑下したり、後悔することも全くない。「何もしない」という最高の時間とさえ思う。

開き直りでも、投げ出しているわけでもなく、心の底から思う。「何もすることがないなら、ひたすら休む。」

きっと「幸せ」をまるで無意識にお茶を淹れられるかのように、ごくごく自然に受け流すことができているからかもしれない。どうでも良くなっている。

当然ながら、この境地に達してしまった以上、物事に対して過度な期待もなくなった。これをすれば幸せになるんじゃないか。邪まな気持ちはとっくに捨て去った。そして、それこそが私の定義する「何もしない」ということであり、仏教からのお知恵を拝借するのなら「知足」。敢えて言うのならば、私の幸せは「何もしない」状態なのかもしれない。

人と話すときも「今日何もしなくて寝てたんだよね。」ということに対しての、半笑いや哀れっぷりのスペシウム光線はもはや感嘆とする。堂々と「何もしていない」と言い張りたい。

でも、話の方向は気がついたら「その時間も大事ですよね?」って、そんなことはない。きっと無駄な時間は無駄な時間でしかない。それが今の私を作ってる要素です、とも思わない。無駄はちゃんと無駄であると、しっかりと自分で認めるからこそ、「何もしない」時間が活きてくるのである。 

そのおかげなのかなんなのか、どんなことにだって喜べるし、嬉しい気持ちになれる。泣きたいときは泣くし、笑う時は笑う。自然の流れがものすごく分かるようになり、人生において最も大切な時間軸として生き続けている。

自然の波を乗りこなせるように常にギアはニュートラルにし、何もしない状態をキープしている。時々、その状態を確かめるかのように、吹けば飛んでしまうようなバカバカしい話をしたくなる。「この電車の椅子がね、、、」「あの日失敗したんだ、、、」など、幸せを考えるよりも、くだらないことを話し合うことのほうが私にとってはものすごく重要なのだ。

バカ話できるくらい平和な日々を楽しみ、素直に受け入れ、次に進んで行く。過度な喜怒哀楽はなく、ひたすら漂うのみ。ニュートラルな状態で何もしない様に今後も立ち振る舞えれば、一旦は生き延びられるかもしれない。

余談だが、「幸せ」にはもう一つ、「仕合わせ」がある。良いことも悪いことも、様々なことが合わさって「仕合わせ」。

例えば、私は温泉が好きなのだが、最近の良いことも悪いことも合わさっている状態で入湯しても、結局「仕合わせ=幸せ」と、悩みなんて無くなってることが多い。もちろん、温泉そのものの効能もあるが、一番は何でも受け入れてくれる温泉に感謝し、見習うことで、様々なことを取り込める素養を自分の中で知らず知らずのうちに育んでいるのではないかと思う。私から言わせてもらえれば、「温泉=仕合わせ」という図式が成立する。

善し悪しどちらも取り込んで「仕合わせ」が成り立つ。優勝も素敵だが、少し勝ち越している状態がまさに素敵。

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