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【パレスチナ雑考】「アラブの春」はチュニジアに始まりパレスチナに終わる?

こんにちは。「地方の会計屋」です。
本来このnoteでは専門分野以外は書かないつもりでした。
しかしながら、10月7日のハマスによる攻撃から始まったイスラエルによるガザの攻撃(実際には文字通りの「ジェノサイド」ですが)を海外のメディアやSNSアカウントを通して見るにつれ、多忙な時期にありながら半ば心ここにあらずといった日々が続いていました。

そして今、6日半に及ぶ休戦は終わり、再び攻撃が再開されています。
これを機に、自身の思考の整理も兼ねてこの記事を書きます。

(既に日本語でもTwitterほかネット上で多く共有されていることもあるので、ここではイスラエルあるいはハマスによる個別の軍事行動については割愛します)

「アラブの春」の世界史的意義を考える

「アラブの春」は失敗だった?

初めに、ここでアラブの春を振り返ってみたいと思います。
本記事のタイトルを見て「なぜアラブの春?」と思われた方もおられるかも知れません。
説明するまでもなく、2010年12月に起きた一人の青年の焼身自殺が引き金となりチュニジアの長期独裁政権を打倒した「ジャスミン革命」に端を発した、アラブ諸国全体を巻き込んだ大きな政治ムーブメントです。特に、タハリール広場に集ったプロテスターたちが携帯電話やSNSを駆使した1か月を超える非暴力的な抵抗によりエジプトのムバラク大統領を退陣に追い込んだことは、大きな驚きでありアラブの春の最大のインパクトの一つでもありました。
しかし一方で、革命後の各国における政権運営の多くは順調とは到底言い難く、革命前以上に強権的な政権が再び復活したり、シリアやリビア、イエメンのように泥沼の内戦に陥ったりしています。

それゆえ、アラブの春は失敗に終わったと一般的には広く認識されています。

(参考記事:2021年3月)

革命の成功と失敗を分けるもの

確かに、短期的に見れば失敗したと言わざるを得ないかもしれません。
では逆に、成功と失敗の線引きはどこですべきでしょうか。
例えば、1789年のバスチーユ牢獄襲撃からルイ16世夫妻の処刑によるブルボン王朝の滅亡までが「フランス革命」なのでしょうか? もしそうであれば、王政崩壊後に台頭したナポレオンが自らフランス皇帝を名乗った時点で、あるいはナポレオンの死後における王政復古の時点で、フランス革命は失敗に終わったというべきなのでしょうか?

ロベスピエールの恐怖政治は?
普通選挙で選ばれたナポレオンの甥が皇帝ナポレオン三世となったのは?

今日において、フランス革命が失敗だったという人は誰もいないでしょう。
1世紀以上の長い歳月とおびただしい犠牲を経て、盤石な民主政治の仕組みとそれを維持するのに必要な知識と慣習がフランスの国民と社会に定着し、絶対主義以前のような政治体制に戻る可能性がほぼ皆無に等しいからです。
何よりも、自分たち民衆の力が専制的な王政を倒し、その後の幾多の国内外での闘争を経て民主主義を勝ち取ったという成功体験が、世代を超えて社会全体で共有されています。

話をアラブに戻しますと、長期的な観点で見れば現時点で失敗と見るのは尚早と言えるかも知れません。
また、私自身も11年前当時それには気が付きませんでしたが、アラブの春を通して彼らが間違いなく獲得したものがありました。
フランスと同様、成功体験にほかなりません。
たとえ丸腰でも、PCやスマートフォンを手に結集すれば、残虐非道な独裁にも勝つことが出来ることを知ったのです。
これは何物にも代えがたい大きな成果に他なりません。

それゆえ私個人の私見ですが、混迷や足踏みやバックラッシュを経ながらも、百年単位で観ればアラブ世界は少しずつ良い方向に向かって行くことは間違いないと信じています。
アラブの春の世界史的な観点からの評価を下すには、まだまだ多くの時間が必要なのです。

中東のソフトパワー

欧米のメディア寡占に風穴を開けたアルジャジーラ

アラブの春の原動力が携帯電話とインターネットであったことは前述の通りです。
しかしそこから発信される情報がどんなにリアルタイムに共有・拡散されるとしても、それを手に発信する主体は基本的にアマチュアの一般人です。当然ながら誤報やデマも必然的に混入しますし、経験豊富なプロのジャーナリストでなければできない領域が自ずと出てきます。
他方で、そのような経験と設備を揃えたマスメディアが興味を示さないか意図的に無視すれば、どんなに重要な情報でも周知されずに終わってしまいます。

世界的に高いクオリティを具備したメディアはBBCやCNNといった欧米の媒体が中心である一方、民主主義の進んでいない中東における既存メディアの多くは各国政府の意向に逆らえないか政府の宣伝機関のような存在でした。
そんな中、米国の対アフガニスタン戦争やイラク戦争でスクープを連発し、一躍全世界にその名を轟かせたのがアルジャジーラです。
何よりもその登場は、従来まで欧米中心だった国際ニュースメディアの寡占体制に大きな風穴を開けたことを意味するものであり、中東のゲームチェンジャーとして無視することはできません。

元々はBBCがサウジアラビアでの合弁事業として開設したアラビア語放送局が前身でしたが、報道の方針を巡りサウジ政府と揉めたことで頓挫に追い込まれてしまいました。その受け皿となったのがカタールであり、国王が出資する形で設立されたのです(現在は政府だけでなく民間からの出資もあります)。しばしば中東のCNNないしBBCとも評されますが、こうした経緯から取材や番組構成も元より、重要な顧客でもあるはずの周辺国との軋轢も恐れず果敢な取材を敢行するのスタイルも、文字通りBBCの子供そのものと言っても過言ではないでしょう。

アルジャジーラの最大の功績は、既存の欧米主体のメディアがあまり関心を寄せなかったテーマにも深く斬り込んだことでもありました。欧米ではなく中東の視点だからこそ光を当てることが出来たわけでもあり、それを可能な限り公正なニュースとして供給できるだけの能力を具備していたからでもあるのです。

アルジャジーラ自体はカタールのソフトパワー戦略の一環ではあったのですが、アルジャジーラがBBCやCNNと比肩しうる地位を確立したことで、それを擁するカタール自体にも自ずと情報が集まることも想像に難くありません。何より、欧米と敵対する勢力にとっては欧米メディアよりもコンタクトしやすい存在であり、その点においてもアドバンテージがあります。今回の戦争でカタールがイスラエル政府とハマスとの仲介役を果たすなど存在感を示していますが、それを可能にしたのも「地の利」に他ならないのではないでしょうか。

世界の最先端を牽引していたアラブ人の知性

また、ここで世界史について少し触れておきます。
高校の世界史であれば必ず触れますが、今から1千年前に学問や科学技術で世界の最先端を担っていたのは現在のイスラム圏(中東)でした。
イスラム圏の最盛期にあたるアッバース帝国の時代には、西はギリシャから東はインドに至るまでその土地で培われていた様々な人文科学や自然科学がイスラム教徒の学者たちによって深く追究され、当時後進地域だったヨーロッパにももたらされました。
alcohlなどのように化学用語にもアラビア語由来の言葉が数多くあり、algebra(代数学)もやはりもとはアラビア語です。

もちろんアラブ人だけが主役だったわけではありませんが、アラビア半島で生まれたイスラム教がインドからヨーロッパの一部までを包含する、今でいうグローバリゼーションをもたらしたことと、今日に至るアラブ人のポテンシャルとは決して無縁でないと考えます。
また何より、ローマ帝国よりもはるか昔から高度な文明や国家が栄えていた地でもあることを忘れることはできません。

またTwitterやインスタグラム等で積極的に自身の置かれた現状を訴えるパレスチナ人のアカウントも多数見ることが出来ます。
彼らを見ていると、知性や教養の高さに気づかされることもあります。実際、パレスチナ人は教育水準も識字率も極めて高い特徴がありますが、国連による教育施設があることと、「決して奪われない財産」として教育にも非常に熱心であるという背景があります。
彼らを見ると、やはり前述のような古代文明及びイスラム帝国の末裔であることを実感します。

それを端的に表すツイートをここで紹介します。スレッドになっていますので、ぜひ前後を併せてご覧ください。

小括:「アラブの春」は失敗に終わったのではなく、まだ途上にある

「アラブの春2.0」

日本ではあまり知られておらず、かつ2011年の時ほどの大きなインパクトはありませんでしたが、2018年~2019年にかけてアラブ世界を再び政変の波が席捲した時期がありました。これは「アラブの春2.0」あるいは「アラブの夏」とも呼ばれています。学生など2011年当時よりも更に若い世代が運動の中心になって、より平和的に行動し、なおかつ反体制の政治家であっても安易に信頼しないといった特徴が指摘されており、彼らもまた2011年の教訓を踏まえつつより確実に運動をアップデートしていることが窺えます。
それを可能にしているのも、より高度に進化したソーシャルメディアやスマートフォンだけでなく、試行錯誤を繰り返しながら真摯に考え行動できる知性と7年前の実体験が彼らの間で共有されていることは、言うまでもありません。

かつてのベルリンの壁崩壊がもたらしたもの

かつて世界全体が東西に分断されていた冷戦時代、東西ベルリンを分断する通称「ベルリンの壁」はまさに冷戦の象徴でした。1989年にこの壁が崩壊すると、まるで堤防が決壊し洪水に吞み込まれるように、「東側」に位置していた東欧諸国においては次々と社会主義体制が崩壊し、その2年後には「総本山」であったソ連が歴史に幕を下ろし冷戦にピリオドが打たれました。
ベルリンの壁崩壊とソ連の崩壊は決して別々の事象ではなく、壁が取り除かれ東西ベルリンの両市民が再会を喜び自由を謳歌する姿がテレビで世界中に拡散され、政府の監視体制による閉塞感と経済の低迷に苦しんでいた東欧の人々が希望を見出したのです。
もちろん、冷戦後の世界が全て順風満帆ではないことは言うまでもありません。ポーランドやハンガリーは右派ポピュリズムが政権を握り、旧ソ連諸国同士や旧ユーゴスラビア諸国では凄惨な内戦も繰り広げられました。プーチンが強権的な指導者として20年以上にわたりロシアに君臨し続けているのも、見方によってはバックラッシュと言えるかもしれません。

しかし強調したいことは、一連の歴史的事件は必ずしも個別に起きることではなく、一見関連性が無いように見えて一つの大きな津波のように連続性が往々にしてあるものなのです。
そして、2011年のチュニジアから始まった激震とそれが生んだ津波は、いまだ本当の意味で終着点を迎えていません。
これはあくまで仮説に過ぎませんが、その津波の終着点がイスラエルを含めたパレスチナとなる可能性が高いのではないかと見ています。
ちょうどベルリンの壁崩壊が2年後にソ連の崩壊につながったように。

思っていた以上に膨らんでしまったので、記事を分けて次回以降はイスラエルやとりうる解決策について引き続き考察していきたいと思います。


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