現実に一喜一憂しなくなる方法
只今瞑想修行43日目。
記録し始めてから43日目なので、もう少し多いはずだけどまぁ大して変わらないくらいだろうと思う。
私は、ふとした時に理由のない憂鬱な感じや、良くない出来事を考えすぎるという性質があったので、瞑想を実践している。
しかし、なかなか頭の中のおしゃべり(妄想)は、止まらないし、智慧(≒ひらめき)は、そう簡単に表れてこない。
スマナサーラ長老は、瞑想を正しくやれば必ず効果が出るとおっしゃっている。
長老のYouTubeや本、瞑想指導会にも参加しておそらく正しいやり方ができているであろう私は、進歩していない感じがもどかしかった。
そんな行き詰まりを感じていた最近だったのだけど、先日長老の法話会に参加して分かったことがあった。
スマナサーラ長老の初期仏教法話会にて
長老の言葉そのものではないけど、多分そんなような意味のことをおっしゃったと思う。
そう考えると、つい最近私は、怒りや嫌だなという気持ちの時に『私は起こっている。●●が思い通りにならなかったから起こっている』と客観的に観察できたのだ。
”気づきさえすればいいんだよ”では気が収まらない
世間ではよく、”気づきさえすればいいんだよ”という何だか納得感のないセリフをよく聞くが、これだけでは私の一喜一憂は収まらない。もう一歩何か欲しいのだ。(確かに気付いた時点で客観的目線を得ているので第一歩だとは思うけど)
そこで長老の法話と瞑想実践が重要になってくる。
瞑想を実践すると、心の変化に気づきやすくなるのだけど、法話のおかげで気付いた後にその感情がどこから来たのかが分かるようになった。これで私の心はようやく落ち着いたのだ。
たとえば怒りの場合は、起こった出来事が『自分の期待通りではなかった』のが原因。
(悲しみも怒りと同じと考えるので原因は同じ)
期待通りにいってほしいと思うのは、一つの執着なので、人はみなそのような感情を持ちがちだが、それを強く持ってしまうと苦しみを生む。だから期待通りに行ってほしいという強く握ったそれを手放そう・・
そんな感じだ。
ということで、
『瞑想を頑張っているのに妄想がなくならない』ということにばかり気が取られて気づいていなかったけど、日常で現象に一喜一憂しにくくなったのは瞑想の効果。
心の開発はたのしい。継続あるのみ。
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