読書感想文 『講孟余話』

きっかけ

大河ドラマ『花燃ゆ』を観て以来、吉田松蔭のファンになった。

パンクで熱くて狂っている人、しかもその中心には志がある。

その当時の僕にとって、それまでの人生で大事にしていたモノをいくつも持っていたことから、共感できて大好きになってしまったのである。

しかし、とはいっても大河ドラマで観ただけで、それ以上の情報はあまり持っていなかったし、名言をたまに眺めるくらいだった。

いまの僕には実践が足りないのではないか、と気づいてヤキモキしている中で、どうにか自分に喝を入れたいと思い、あの松蔭先生の言葉を借りたいと思ったのだ。

この本は、吉田松陰の孟子批評を現代語へ著者が超訳し、コメントを加えたものである。

これを通じて、より松蔭先生の本質にせまり、自分と向き合いたいのである。


気づき

「恥」とは自分の心のなかの ”神性” を傷つけたときに感じる痛み

これはうまく「恥」を言語化できている!と感嘆せざるを得なかった。

自身、若い頃は周りの目ばかりを気にしていて、周りにとって恥ずかしくないかどうか、が自分の判断基準の多くを占めていたように思う。

30歳に近づくにつれて、だんだんと自分の軸で判断したり考えることができるようになってきた。

その中で、自分が ”どんな状態が最もイヤなのか” を考えたとき、誰かを傷つけているとき、だということに気づいた。

それは、つまり ”どんな状態が最もいいのか” と考えると、
誰かを幸せにしているときだ、ということに気づいたのである。

若いときと一緒のようにも思えるが、それは違うと思っている。
消極的な幸せに仕方、と積極的な幸せに仕方という意味で全く違う。

誰かを幸せにできているのか、という自分の ”神性” に対して、感度高く生きていくことが自分にとっての ”「恥」をかかない人生” であるということに気づかされたのはとても大きい。

「恥」の概念には本質的に他人は関係ないかもしれない。


己の命以上の価値があり得ることを認められるか否か

正直、吉田松蔭らの自分の命を投げ打っている感じに関しては、いままであまり共感できていなかった。

命を賭してまで、何かを得ようとする前に、命も助かる方法を考えられないのか、と思っていた。

しかし、ここ最近『鬼滅の刃』とウクライナ侵攻のニュースを見ていて、もしかしたら、命の価値を超えるものが、無いとは言い切れないのでは思えるようになってきた。

鬼滅の刃で言うと、鬼殺隊は明らかに自分の命を失うリスクを取って、他の人の命を救おうとしている。

そして、その想いを繋いで、1人の命の時間を超えたものを残していこうとしている。

この作品に対して、多くの人が共感している、という点からすると、ヒトの奥底の部分では、命の価値を超えるものが、無いとは言い切れない、ということについて、共感できる部分があるのでは、と思った。


また、ロシアのウクライナ侵攻に関して、ウクライナ人が自ら志願して兵士になろうという姿を見せていることを知った。

自分の家族、国、後世に至るまで、残すために戦う。

それに対して、最大のリスクは自分の命だ。

どういう気持ちで志願しているかは、正直自分では計りきれない。

ただ、その姿勢を愚かだ、という人がもしいるのだとしたら、一度考えてみてもいいかもしれない。


やること


兎に角、何かをやるには、覚悟が必要で、覚悟=捨てる、だといまの僕は思っている。

何かを得るためには、心地よいゾーンを捨てて、自分が見たことがない、痛みを伴うゾーンにいかなければならないと知ったので、僕は心地よさを捨てて、前に進み、そして新しいものを得る。

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