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「温泉復古はここから始まった」音泉温楽主宰 / 別府温泉ホテルニューツルタ 鶴田氏へのロングインタビュー:後編

前回のnoteでは、様々な企画を生み出す鶴田氏の思想のベースとなるヒトやコトに焦点を当ててきた。高度経済成長後期に生まれ、日本経済の最盛期を感じた幼少期、経済崩壊の影響を目の当たりにする20代前半から話を進めるとしよう。

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鶴田宏和(ツルタヒロカズ)
1977年福岡市出身、大学卒業後音楽業界に進みエンターテイメントビジネスに長く関わる。2009年温泉旅館を貸切った温泉×音楽フェスティバル「音泉温楽」を長野・渋温泉金具屋で立ち上げ、その後全国の温泉地に展開、ユニークベニューを活用したイベントプランニングを得意とする。2013年婿入り結婚を機に別府温泉へ移住、北浜・ホテルニューツルタの経営に参画。別府ではナイトガーデンパーティー「The HELL in 海地獄」、ハイエンドウェルネスプログラム「北浜ウェルビーイングステイ」などのプロデュースを手掛けている。湯会株式会社 代表取締役。

自力で生き抜く覚悟と音楽の力

深川:以前にも伺ってはいるんですが、大学卒業後は音楽レーベルに入社されたんですよね?そこで学んだことがイベント制作とかにも活きているかと思うんですが、当時のお話を伺ってもよろしいですか?

鶴田:そうだね、ちょうどその頃は就職氷河期ど真ん中で、大手企業の正社員になるハードルが高かった。高校から親元離れて京都のいわゆる進学校に行かせてもらったり、親の期待もあったけど、その時に全て諦めたんだよね。「社会は無条件に自分を幸せにしてくれない、これからは好きなことだけして生きていこう、死ぬまで遊んで暮らそう!」って。もちろんそれは、道楽だけで生きていくわけじゃなくて、社会の奈落の底に落ちるリスクを抱えながら常に自分が楽しいと思えるものを選択しつづけるっていう意志だった。

深川:大学生でその意思決定ができるのはすごいですね。僕も「好きなことで生きていきたい」と思ってるうちの1人ですが、実際に実行して継続できている人はほとんどいないなと。経済的な理由とかいろんな理由で諦めちゃうことの方が多いと思うんですよね。しかも、日本経済がかなり沈んだ時代にそれを選ぶのはなかなか勇気が必要ですし。

鶴田:僕にとって、その好きなことっていうのが「音楽」。運良く音楽レーベルに拾われて働き始めるんだけど、大きな会社ではなかったから、1枚のCDが世の中に出るまでの過程を目の当たりにさせてもらったり、イベントの企画から運営までチャレンジさせてもらったり、音楽ビジネスの基礎を徹底的に叩き込まれた。本当にいろんなことを経験させてもらったね。
仕事と並行して、仲間のイベントの制作やプロデュースも始めて、代官山のUNITで1,000人規模のイベントをやったり。当時リスペクトしていた人達がオーガナイズした「RAW LIFE」っていう伝説的なイベントが千葉の廃病院とか新木場の空き地であったんだけど、今考えるとあれは当時の東京で最高にアンダーグラウンドかつ刺激的な都市型レイヴだった(笑)音楽に関わる会社に勤めつつ、週末は仲間とイベントをプロデュースするっていう、遊びの延長線上にある自己実現がそこにはあったんだよ。

ただ、そうやってカルチャーが花開き、そこに居合わせられた幸運を喜びながらも、その頃から国内のユースカルチャーが徐々に下火になっていくのを感じていて、その背景にあったのはインターネットの拡張もあったし、風営法の取締りもありリアルな場への締付けががどんどん強くなっていったことも関係してた。
大型ロックフェスもDIYパーティーも拡大、飽和していった一方で、DJたちのMIXもどんどんマニアックな方向に寄って行って、お客さんもそれを理解できる人たちしか遊びにくくなっちゃった。理解できる人たちも、それぞれの趣味嗜好にあった箱だけに遊びにいくようになっていくので、その場のマニアックな度合いがどんどん深くなって行っていたね。

深川:憧れの東京で自分の見て育ってきたパーティーを作り上げられるって夢みたいな話ですね。正直、僕もマニアックな人しか楽しめない空気感が苦手で、東京でも別府でもたまに感じることはあります。誰しもが最初は初心者なんだから、初めての人にも優しいお店にしたいと思って「遊びの入り口」というコンセプトをお店では掲げてます。

消失する遊び場の先に見えた新たな光

深川:今までの話から、遊ぶ場所が少し窮屈になってきた感じを受けたんですが、鶴田さんはどこに遊び場を移したんですか?

鶴田:この話はまだ謙蔵(深川)にはしてなかったけど、その時期に今も親交のあるDJ CARPに出会って、彼から新宿2丁目のとある箱で歌謡曲ナイトをはじめるからどう?って誘われて。2丁目の存在は認知していたけども、どんな人や文化があるのか全く触れたことがなかったから、最初はものすごい衝撃でね。高校の時に体験したテクノパーティーと同じくらいの衝撃なのよ(笑)
だって、みんなが「私を見て!」って主張する空間なんだよ。クラブってさ、女の子にモテたい男たちが頑張ってダンス踊ったり、DJやったり、面白い話をしたりするわけじゃん。つまり、男たちが頑張って女の子の気を引こうとする場所。そういった社交場としての役割はクラブと変わらないのに、同性同士の出会いの場ってなるだけで一気に空気が変わって、2丁目だと全員が気を引こうとし合ってるんだよ。ある意味全員が対等で自由だった。
当時は今ほどゲイカルチャーが受け入れられるような雰囲気はなかったから、日中は本来の自分を隠して働いて、夜は本来の自分を存分に出すっていうコントラストから生まれる熱量が凄くてそれまでに感じたことのないグルーヴを感じたね。

京都にあった「マッシュルーム」 と同じくらい影響を受けたお店が新宿2丁目の「ニューサザエ」って箱で、規模は小さいけどDISCOなんだよね。とにかく自由な箱で、常連のDISCO世代の年配の人がずっと飲んでたり、ブッ飛んだ外国人もいるし、なぜか迷い込んだ観光客カップルとか、たまには芸能人がお忍びで来てたりとか、ドラァグクイーンのような派手な女装をした人もいる。DJは妙齢の女装家の人で、僕たちはその人がつなぎを無視したかのようにスピンする大ネタDISCOサウンドを浴びながら、隣で踊っている様々な人種の人たちと無条件で多幸感を味わうカオス。そんな空間なかなか無いじゃん、NYにかつてあった「studio54」「パラダイス・ガラージ」かよって(笑)
マニアックな音楽を追求していく箱のカッコよさももちろんあるけども、そうではなく全てを許容するような場所のカッコよさもあると思っていて、その時の自分が選んだのはこっちだった。

失われた「揺らぎ」を取り戻す温泉復古の大号令

深川:珍しく鶴田さんから人間っぽさを感じるエピソードですね(笑)これまでの話を聞いてると、鶴田さんならマニアックな方向性を選ぶ気がするんですよね。だけど、その窮屈さのようなものから解放される2丁目の空気感を選んだのはとても意外でした。どうしてそっち側を選ぼうと思ったんですか?

鶴田:どんどん「揺らぎ」がなくなっていく時代の中で、リテラシーやサウンドだけで会話するのが辛かったんだと思う。それとは反対に、2丁目ってものすごくフィジカルだしグルーヴィーなんだよ。マナーがないと言ったら語弊があるけど、お店の人が決めたルールの中で遊ぶのがマナーだとしたら、そのルールの許容範囲がものすごく広いんだよね。リテラシーがどうとかじゃなくて、純粋にそこにいる人たちを尊重するような空気が特にニューサザエにはあった。それは亡くなった紫苑ママの遍歴からも伝わってくるんだけど、ものすごくいろんなカルチャーを見守り、さまざまな経験をされていた方だからこそ前提条件なく混ざれるあの唯一無二の空間を続けられたんだと思う。

ちょうどその時に仕事で全国の温泉地を巡っていて、風営法で取締りが強くなってきていたクラブのダンスフロアを旅館の宴会場にサルベージできないか?と思って温泉×音楽フェス「音泉温楽」を始めるんだけど、さらにそこに2丁目の持つ空気感を持ち込みたいと思って始めたのが「湯会」っていうパーティ。
今考えると、音泉温楽はその当時暗雲が立ち込めてたクラブカルチャーのオルタナティブだったんだよね。自分自身を形作ったクラブで遊べなくなることへのお上へのカウンターとして僕たちが見つけたのが温泉旅館の宴会場だった。だから、僕が企画するものって自分に必要なものなんだよね、僕たちの遊びを続けるために。そして、お客さんにはそれに付き合ってもらってると思っている。だからこそ、最大限に楽しんでもらいたいと思っているし、安心して遊べる環境を作るのが僕の仕事だと思ってもいる。

深川:アンダーグラウンドなクラブカルチャー黎明期に京都で育って、レーベルで働きながらパブリックなイベントも作ったからこそ、音泉温楽ってゆうパブリック性もあるけど、レイブ特有のアンダーグラウンドな感じも残すイベントに辿り着いたんですね。そして、そこに2丁目のフィジカルさとグルーヴが追加される。

鶴田:うん、そうそう。去年DOMMUNE宇川直宏さんに呼んでもらって対談して、音泉温楽のことを「それって、UKレイヴじゃん!」って言われたの。さっき言ったように、マンチェスターのハシエンダって場所がUKレイヴを生んだんだけど宇川さんはそれを文字って「湯系レイヴ(ユーケーレイヴ)」って。それで「おおお!おれ湯系レイヴやってたんだ!」ってなった(笑)だから音泉温楽はジャポニズムレイヴだよね。単純に場所が面白いからとかじゃなくて、レイヴって文脈の中でそれを和風に表現してる。僕はこれを新たなユースカルチャーのムーブメントにしたかったの。若い人が温泉地で遊ぶってゆうニューウェーブをね。でも僕はもう歳をとってしまったので、あとは謙蔵(深川)に託します(笑)

開かれる時代にあえて閉じることで見える「座標」

深川:音泉温楽に限らず、これまで様々なイベントを手掛けられた鶴田さんが見る音楽フェス / イベントの未来ってどのように考えてますか?新型コロナというこれまでの流れが大きく変わるような局面にきている今、この話をぜひ鶴田さんに聞きたいと思って今日取材に伺いました。前段が長くなりすぎちゃったんですけども(笑)

鶴田:結局、開いたものは閉じていくんだよ。歴史的に見ても、これまでずっとそれを繰り返してきてる。今で言うと、SNSが出てきていろんな人と繋がれて、開かれて行った。僕自身も最初はそれを楽しんでいたけども、正直今は開かれすぎることの怖さや疑問も感じているし、最近はあまりSNSは使ってないね。
これはリアルの場でも同じで、いろんな人に対して開かれ過ぎた結果「安心して楽しむ」ということが難しくなってきた。予めこちら側が想定していたものがあっても、めちゃくちゃ酔い潰れちゃうとか、めちゃくちゃテンション上がり過ぎちゃうとか、予測の範囲を超えてしまう場合もあって、それはとても反省してる。そんなこともあって、最近はもっと閉じてもいいから安心して楽しんでもらえるパーティを作りたいなと。

深川:鶴田さんが「安全に閉じる」という言葉をよく使われているのにはそんな背景があったんですね。僕もイベントを作ることが多いので、その安全性の確保みたいな部分はいつも悩みます。ただ、これまでの鶴田さんだったら「安心」みたいなものは無視して過激なものを求めていたようにも思うんですけど、何がきっかけで「安心」が必要だと思ったんですか?

鶴田:表現が難しいんだけど、自分の暮らしの「座標」が見えたんだよね。座標っていうのは、自分の役割のようなもので、わかりやすく言えば「何を大切にすべきか」ってことかな。東京にいた頃は、どんどん広がっていく人と人との関係性や情報を浴びまくる楽しさも感じていたけども、広がりすぎると自分にとって何が大切なのかっていうのが見えづらくなる。そして、3.11が大きなきっかけとなって自分の座標がうっすら見えた。それをきっかけに東京から離れて、今の奥さんとの出会いがきっかけで別府に移住したんだよね。
そして、今自分が立っているこの別府の街には特別な地域性があって、文化もあって、家族もいて、その範囲が狭いからこそ自分が大切にするべきもの、つまりは「座標」が見えやすい
別にこの座標の数は増えても良くて、それらの座標の全てを含めて自分を形作ってるんだけど、中心となる座標は必要で、僕の場合はそれが「家族」。そして、その座標を軸に考えた時に必要なものが「安らぎ」だった。

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閉じていく時代に求められる「安心」と「接続性」

深川:鶴田さんの心境の変化によって主宰するイベントの在り方も変わっていくのは面白いですね。先ほど話されていた「イベント=自分に必要なもの」という話がしっくりきました。3.11ではないですが、今回の新型コロナを機に色々と考え直す人たちも増えてますよね。「これから何をしていこうか」って。

鶴田:そうだね、だからこそ色々と広がることの快楽と危うさが両面わかると思っていて、その正反対のものを作り出そうと思って始めたのが「THE HELL in 海地獄」。完全招待制で、場所は非公開、そこにアクセスできる人たちだけが集まることで、フィジカルを伴う強い繋がりが生まれると思って企画した。

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深川:なるほど、イベントから1年以上経って初めて言葉の意味を理解できた気がします。一緒に運営していたメンバーとしては、イベント集客目標1日120人とか言ってるのに、全然集客かけずに2週間前に場所と時間だけをアナウンスするって異常だと思ってましたよ(笑)

鶴田:ごめんごめん、でもそれがレイヴなんだよ(笑)海地獄って別府を象徴する場所だと思っていて、特別なコバルト色をした温泉が湧き出していて、それが視覚的にも楽しめる。だから別府でパーティーやるなら絶対に海地獄だと決めていた。海地獄が変われば別府が変わる大きなきっかけになり得るんじゃないかって。

こんなことばかり言うと繋がりを増やすことや、開きすぎることが悪いように捉えられるかもしれないけど、決して開くことが悪いんじゃなくて、その中でどう楽しむかっていう話なんだと思う。小さくても質を高める努力をすれば良くて、どのようにしてお客さんに「揺らぎ」を感じてもらうのかを考えることが大切。例えば、文化的多様性や、当日のフードや人種や性別など、いろんな混ざり合いを生むことで意識変容が生まれやすくなる。そういった独自の掛け算を楽しんで作ると、温泉のゆけむりのような「揺らぎ」のあるイベントになるんじゃないかな。

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深川:そういう意味で言うと、その掛け合わせられるものの多さが重要になってきそうですが、別府は掛け合わせる素材の宝庫ですね。

鶴田:そうそう!その掛け合わせのバリエーションこそがその街の価値になっていくと思っていて、別府であれば温泉や食、若者、自然、多国籍からくる多様性など、掛け合わせる素材がたくさんあるんだよ。それってなかなかできそうでできないじゃん。
そして大事なのは接続性の良さで、いかにスムーズにそこにアクセスできるのか、もちろんそれをフィジカルで。東京だと素材は溢れるほどあるんだけど、何をするにしても接続するためにお金が必要なんだよね。だけど、別府の場合はそこにあるものなんだよ。温泉も自然も多国籍な若者も気軽にタッチできる。それこそが別府のユニークな点だよね。
別府の人たちは誰しもがこの街を訪れる大事な仲間達をもてなすための自分なりの観光的な意味合いでのコンテンツのつなぎ、言うなればDJミックスのようなものを作って楽しむべきなんだよ、地域をミックスするローカルDJとして(笑)
そして、そのローカルDJたちがサウンドとしての自分のDJミックスとカルチャーとしての地域ミックスを持って世界中に正しく広がっていくことで、City to Cityでより幸せな交歓が生まれるかもしれない。かつて、クラブDJたちが世界中を繋いで一大ムーブメントを作り上げたあの頃のように。それが、これからのイベントや新しい観光の姿であってほしいと願ってる。

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all photo by 東京神父(HP / IG / TW

折に触れて、いろんなこと思い出すプレイリスト

深川謙蔵 / the HELL オーナー, the HELL MAGAZINE編集長
1990年佐賀県生まれ。立命館アジア太平洋大学卒。卒業後は株式会社オプトに入社し、新卒採用担当として勤務。2019年3月から別府に移住し、「遊びの入り口」をコンセプトにしたレコードバーthe HELLを開業。コロナ禍では、別府の風景を販売するチャリティの企画や、複数の飲食店と協力して朝ごはんを提供するイベントを運営。2021年5月より、「街の人が、街の人に学ぶ『湯の町サロン』」を主宰。
Twitter / Instagram
多久島皓太 / ライター
1998年生まれ大阪出身の23歳
the HELLには開店当初から通っており、当マガジンの趣旨やオーナーの想いに共感しライターとして参加。現在起業準備中で日々の苦悩や葛藤、また趣味であるサッカーに関してなどSNSを通して幅広く発信している。
英国の伝説的ロックバンド oasisの大ファン
Twitter / note


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